砧教会の聖書箇所はラザロの復活だった
砧教会の戦時は続いている。金井美彦氏はその事実に1mmも触れなかったが、佐分利正彦氏に私への配餐を指示した。彼の今の祝祷は私には呪いだ。悔い改めて真実に向かい合っていただきたい。
FOSSコミュニティが声を上げる時代
FOSSの代表といえば、Linuxが思い浮かぶ。私がコミュニティとして思い浮かぶのはDrupal(Drupal Association)とQGIS(FOSS4G)だ。もちろん他にもたくさんあるが、デジタル公共財という概念が生まれ、社会的な責任についても議論されるような時期を迎えている。EUのCRA問題はパラダイムシフトを起こすかも知れない。
新生活148週目 - 「「毒麦」のたとえ〜「からし種」と「パン種」のたとえ」
信仰告白を行うのは川を渡ってしまうことと同じで、対岸から見える景色を見ることができなくなる。使徒信条で「かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」と終末の裁きを信じていると表明しているが、その存在を証明することも裁判の結果を予想することもできない。悪魔が毒麦の種を蒔くという解釈はわかりやすいが、違和感がある。
自分が何に依存しているのかを知ったら世界が違って見えるのではないか
私は、毎日クロワッサンとバゲットを食べているが、その小麦がどこで生産され、どう運ばれ、誰にどれだけ金を払っているかを知らない。
腐敗した組織を回復させるのは難しい
腐敗した組織は綺麗事を言うようになる。砧教会は最近、「真理はあなたたちを自由にする」という招詞を唱えさせるようになった。それを強制的に唱えさせるということは、自らに真理がないのを告白するのと同じである。あるいは、自分を社会の外において傍観している表明とも取れる。真理を追求しない組織に明日はない。行動の伴わない綺麗事は破滅の源泉だ。