キリスト教

新生活225週目 - 「イエス、洗礼を受ける」

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Depiction of the Christian Holy Spirit as a dove, by Gian Lorenzo Bernini, in the apse of Saint Peter's Basilica, c. 1660
イエスの洗礼の記事は、ほぼ共観福音書の記述が一致している。また、その後に荒れ野の誘惑についても同じように書かれている。洗礼を受けたら、その後は様々な誘惑から守られると考えることはできない。生きている限り、常にリスクに晒されることになる。それでも、信仰告白の原点に戻り、聖霊に期待することはできる。

新生活224週目 - 「占星術の学者たちが訪れる」

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2019年11月17日のミンスクの教会の前で入らずに祈りを捧げる女性
東方の3博士の話は、クリスマス劇で良く取り上げられることもあって、そういうシーンがあったのだろうと思っていた。しかし、改めて読み直すとありえない話に思えてくる。特に公生涯前の記事にはそういう箇所が多い。聖書を字句通り信じることが信仰とは言えないだろうが、信じるとはどういうことかと考えさせられてしまう。

新生活223週目 - 「神殿での少年イエス」

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Jesus among the doctors at the Temple.
繰り返し同じ箇所を読み直して、3年前と比較していると、徐々にその箇所の話だけではなく自分で調べたりした前後や背景などを面で考えるようになって来る。所詮、専門教育を受けていない無学なものの考察に過ぎず間違いも多いだろうが、イエスを取り巻く環境がどうだったのかが見えてくるような気がする。

新生活222週目 - 「マリア、エリサベトを訪ねる」

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Visitation
エリサベトはルカ伝にしか登場しない人物。神殿奉献が事実だったとすれば、マリアとの関係は夫であり大祭司でもあったザカリアが神殿奉献された3歳のマリアを受け入れた時から始まっていたはずだ。だとすると彼女は実質的な養母で、実の娘のように愛情を注いでいたのではないかと思う。

新生活221週目 - 「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる(中盤)」

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The supposed location where John baptized Jesus Christ East of the River Jordan.
一世代から二世代上の方は敗戦の記憶があり、社会体制は大展開した。邪悪な日本兵が平和を希求する存在に変わったとも言える。実際に兵役を経験して、これはやっぱり違うものだと感じた人は多かっただろう。しかし、一度入ってしまえば権力構造に従うしか道はない。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言ったと書かれている。その声が日本兵に届いたとしても周囲の目もあるから、それすら守る自由はなかっただろう。人に対して悪を行わないようにせよという教えを超えて、人を愛せという教えでイエスはこの世界を変えた。

新生活219週目 - 「人の子が来る〜目を覚ましていなさい」

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タリンのクリスマスマーケット2024
楽観的かも知れないが、「残された時間を大事にしなければいけないと思う」ということは、福音のヒント(4)で述べられている「目を覚ましていることとは祈ることだ」とある意味で同じなのではないかと思う。

新生活217週目 - 「人の子が来る〜いちじくの木の教え〜目を覚ましていなさい」

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夜に主人を待つ使用人のたとえ
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」という言葉のインパクトは大きい。イエスすら知らないという表明である。弟子たちはわりとすぐ来ると考えていて、当初はかなり短期的な視野に立っていたのではないかと想像する。終わりはいつ来るかわならないという言葉は重い。