キリスト教

新生活236週目 - 「「放蕩息子」のたとえ」

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Rembrandt: The Return of the Prodigal Son
福音のヒントには「わたしたちは(兄、弟)どちらの立場でこのたとえ話を聞くことができるでしょうか」と書かれているが、誰しも兄と弟双方の側面を持っている。誰かと比較して自分の道を考えていくのではなく、本当に自分がなすべきことは何かを考えさせられる話だから印象に残るのではないだろうか

新生活234週目 - 「イエスの姿が変わる」

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The church on Mount Tavor
神の声が聞こえたという記述はイエスの洗礼の時とこの不思議な物語の2回だけだと思う。共観福音書全てでこの物語は記録されているので、使徒たちの経験として語られていたことなのだろう。しかし、どの山で起きたことなのかは記録されていない。事実はあったのだろうか。

口語訳古事記

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口語訳古事記
創世記を意識しながら、古事記を読んだら、ネフィリムの記述に類似性を感じた。独り神という記述は聖書にはなく、ずっと最初の神が今も活動している建付けになっている。古事記では、死ぬ訳では無いがいなくなる。だからどうというわけではないが読み物として面白い。

新生活233週目 - 「誘惑を受ける」

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Temptation of Christ (mosaic in basilica di San Marco)
荒れ野の誘惑は象徴的な記事だ。ただ、目に見える荒れ野に限らず、Fakeニュースに満ちた情報洪水社会だって荒れ野と考えて良いだろう。「切り取り動画」的なショートカット指向の誘惑に負けることなく狭き道を選び取れることが望ましい。

新生活232週目 - 「人を裁くな~実によって木を知る」

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ウクライナ国旗
3年前に同じ箇所の記事を書いている。そのときには前週に勃発したウクライナ侵攻に言及している。先週、ゼレンスキー氏はトランプディールを拒否した。どの道が、「二人とも穴に落ち込みはしないか」でない好ましい道なのかはわからないが、ファリサイ派、律法学者のような権力側にいる人が、自分を一般人の外において特権がある、あるいは自分は盲人のようではなく正しい道を知っていると考えるようになってはいけないとイエスは繰り返し説いている。

新生活231週目 - 「敵を愛しなさい~人を裁くな」

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The Exhortation to the Apostles. Brooklyn Museum
現代の西側社会に生きている人は、イエスの時代とは異なり、その後のイエスの生涯、キリスト教の発展、体制化の歴史知識に基づいて聖書を読む。イエスから直接教えを受けた人は、そのコンテキストなしに教えを解釈した。当時は突拍子もない事を言う人だという印象を持ったに違いない。しかし、少なくない人が長い時間を経て、あのときのイエスの言葉は本当に正しかったと思うようになったのだと思う。逆に、現代人はコンテキストに縛られていることに注意しなければいけないと思う。