キリスト教
新生活123週目 - 「山上の説教を始める」

「心の貧しい人々は、幸いである」は何を意味しているのかわからない。学者、一般人に限らず、様々な人が様々な説を提示している。幸せになるということはどういうことを意味しているのだろうか。
新生活122週目 - 「ガリラヤで伝道を始める・四人の漁師を弟子にする・おびただしい病人をいやす」

ガリラヤはイスラエル視点では辺境で、多様な人が行き来する街だった。エリコだってエルサレム神殿からはそれなりの距離がある都会の辺境だったが、サマリヤの向こうにあるガリラヤはほとんど異国だっただろう。辺境を蔑んではいけない。
新生活121週目 - 「神の小羊」

洗礼者ヨハネには一定の社会的信頼が得られていた。彼がイエスについて証ししたという記事にインパクトはあるが、イエスがヨハネの認証を受けなければいけない理由はない。ただ、四福音書から想像するにヨハネの洗礼が変化の起点になっていたように感じられる。
新生活119週目 - 「羊飼いと天使」

カトリック教会は1月1日を世界平和の日としているのだそうだ。ウクライナ侵攻は、内戦のような紛争ではなく本当の戦争だと思う。救い主が現れて世を正すことを期待する思いは禁じ得ないが、イエスはそういう救い主ではなかった。イエスがイエスと名付けられた日を世界平和の日として祝うのは好ましいことだと思う。もちろん強要するものではない。
新生活118週目 - 「イエスの誕生」

ルカ伝の生誕物語は史実ではなく創作だと思う。人口調査やヘロデ大王の死去時期など他のより確からしい歴史資料との整合性がない。だからといって、この記事が無価値というわけでもない。いろいろ含みおいた上で、クリスマスを愛でたい。
今日砧教会の現住陪餐会員復帰が無い旨の通知を受けた
昨日まで今日の礼拝をオンサイトで出ることを考えていた(資料のプリントアウトをかばんにいれていた)。実際、自分の行動は随分緩くなっているからもう通っても良いかなと思っているけれど、礼拝出席者は高齢の人が多いし、急変して亡くなるケースをTwitter等で散見するので、昨晩の時点でオンライン参加を決断した。佐分利正彦氏から役員会報告があり、裁判の件として内容に触れずに検討するとあったので質問した。佐分利氏は答えないを連発したが、金井氏は現住陪餐会員復帰は認めないと明言した。
新生活117週目 - 「イエス・キリストの誕生」

新国際訳聖書(NIV)では、Joseph Accepts Jesus as His Sonという見出しがついている。マタイ伝では、イエスの誕生前後にヨセフが4回夢で導かれたことが書かれている。容易に説明のつかない選択を行う際、行った際、それを「お導き」と考えるか、他人がそう見なすかは判断する人の解釈である。ヨセフがどういう人であったか、イエスとの関係がどうだったかには興味があるが、手がかりはほとんどない。
新生活116週目 - 「洗礼者ヨハネとイエス」

恐らく洗礼者ヨハネの予想に反して、到来した神の化身は力強い裁く人ではなく、民衆の側で生活する愛の人だった。不思議なことだが、2,000年を経ても多くの人がその誕生を記念し、その道を知ろうとしている。知りたいと思うとともに、一歩でも足を進めなければと思う。