新生活262週目 - 金持ちとラザロ 画像 この世ですでに報われた人は、すでに得られるはずの幸福を先食いしてしまったから後は悲惨が残っているだけだという話になる。しかし、その考え方には無理がある。また裕福な環境に育った人は、その位置から見える世界しか見ることは難しい。多くの考え方に接して自分の進むべき道を探っていけばよいのだろう。 タグ キリスト教 新生活262週目 - 金持ちとラザロ の続きを見る
イエスという男 第二版[増補改訂版] 画像 「神を信じないクリスチャン」という考え方を権威に依存することなくイエスの思想に共感するものと解釈した。 タグ 読書記録 キリスト教 イエスという男 第二版[増補改訂版] の続きを見る
新生活261週目 - 「不正な管理人」のたとえ 画像 誰でも、管理人の役割、誰かの富の一部の運用を任せられることはあるだろう。その結果、自分の富も増える(報酬がもらえる)が、突然その仕事が取り上げられることもある。その時、残っている時間で何ができるかを考えることになるが、自分だったらどうするだろうかと考えて見るのも面白い。 タグ キリスト教 新生活261週目 - 「不正な管理人」のたとえ の続きを見る
新生活260週目 - 「見失った羊」のたとえ〜「無くした銀貨」のたとえ〜「放蕩息子」のたとえ 画像 たとえ話は3つあるが、どれも失われたものが戻ってきた話で、神の民が道を外れししまっても戻ることができれば神は喜ばれるというテーマと捉えることができるだろう。信仰から外れたらそれで終わりということではない タグ キリスト教 新生活260週目 - 「見失った羊」のたとえ〜「無くした銀貨」のたとえ〜「放蕩息子」のたとえ の続きを見る
わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない(マタ12:7) 訳を検討することで得られることは少なくない。この憐れみという言葉はホセア書の新共同訳では愛という言葉になっていて、その言葉は英語では新約でmercy, compassion、旧約でmercy, loyaltyと訳されている。とても興味深い タグ キリスト教 わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない(マタ12:7) の続きを見る
新生活258週目 - 「客と招待する者への教訓」 画像 謙虚な有力者をイメージするのは難しい。神を最高権力者とする宗教は神の裁きが待つ。教訓として「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」はわかりやすいが、本当にイエスはこの通りの発言をしたのだろうか。 タグ キリスト教 新生活258週目 - 「客と招待する者への教訓」 の続きを見る
新生活257週目 - 「狭い戸口」 画像 実は広き門から入っても、そこここに狭き門が存在していて、途中から入れるケースはあるのではないかと思っている。必ずしも苦行が必要な訳では無い気がするが、必要なら苦行が与えられることもあるだろう。 タグ キリスト教 新生活257週目 - 「狭い戸口」 の続きを見る
新生活256週目 - 「分裂をもたらす」 画像 地上に火を投ずるというのは、ちがうことはちがうという声が広がっているという状況を意味するかもしれない。現代は王国(専制君主)の乱立時期に比べれば遥かにマシになっている。紆余曲折を経ながらも御国は近づいていると私は考えている。 タグ キリスト教 新生活256週目 - 「分裂をもたらす」 の続きを見る