新生活265週目 - 「やもめと裁判官」のたとえ 画像 この箇所の解釈として、やもめのような弱いものがしつこく公正な社会の実現を求め続けることによって、社会は進化するのだ、加えて、神はその時点でのマイノリティーである「選ばれた人たち」の祈りを聞いていて、必要な精霊の働きを下すのだ、とイエスが言ったと考えてもよいだろう。 タグ キリスト教 新生活265週目 - 「やもめと裁判官」のたとえ の続きを見る
田川建三訳著 新約聖書 訳と注 1 マルコ福音書/マタイ福音書 画像 翻訳という作業は、もともとどういう意図で書かれたのかを想像しながら、可能な限りその逐語訳をしようとする作業と捉えることができる。そのために古の写本を複数比較し、これまでの研究成果を読み込んで、当時の言葉をそのまま読めるようになろうとする無理ゲーでもある。田川訳と注を読むと、良く記憶に残っている箇所に意図的な操作が加えられていることに気が付かされる。ある種、盲信の熱狂から脱せさせる効果があり、教会組織から見れば具合の悪い書物と言えないこともない。しかし、熱狂を脱しても消えない教えは残る。 タグ 読書記録 キリスト教 田川建三訳著 新約聖書 訳と注 1 マルコ福音書/マタイ福音書 の続きを見る
新生活264週目 - 重い皮膚病を患っている十人の人をいやす 画像 サマリアという単語もサマリア人という単語もマルコ伝には出てこない。マルコ伝ではサマリア人が1箇所、ルカ伝では合計4箇所、ヨハネ伝で7箇所、使徒行伝で8箇所。新約聖書では他に出てこない。 タグ キリスト教 新生活264週目 - 重い皮膚病を患っている十人の人をいやす の続きを見る
新生活263週目 - 赦し、信仰、奉仕 画像 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったのは理解できる。より良い状態を目指すということだからだ。しかし、イエスは本当にそれが力を生むというような話をしたのだろうか。 タグ キリスト教 新生活263週目 - 赦し、信仰、奉仕 の続きを見る
新生活262週目 - 金持ちとラザロ 画像 この世ですでに報われた人は、すでに得られるはずの幸福を先食いしてしまったから後は悲惨が残っているだけだという話になる。しかし、その考え方には無理がある。また裕福な環境に育った人は、その位置から見える世界しか見ることは難しい。多くの考え方に接して自分の進むべき道を探っていけばよいのだろう。 タグ キリスト教 新生活262週目 - 金持ちとラザロ の続きを見る
イエスという男 第二版[増補改訂版] 画像 「神を信じないクリスチャン」という考え方を権威に依存することなくイエスの思想に共感するものと解釈した。 タグ 読書記録 キリスト教 イエスという男 第二版[増補改訂版] の続きを見る
新生活261週目 - 「不正な管理人」のたとえ 画像 誰でも、管理人の役割、誰かの富の一部の運用を任せられることはあるだろう。その結果、自分の富も増える(報酬がもらえる)が、突然その仕事が取り上げられることもある。その時、残っている時間で何ができるかを考えることになるが、自分だったらどうするだろうかと考えて見るのも面白い。 タグ キリスト教 新生活261週目 - 「不正な管理人」のたとえ の続きを見る
新生活260週目 - 「見失った羊」のたとえ〜「無くした銀貨」のたとえ〜「放蕩息子」のたとえ 画像 たとえ話は3つあるが、どれも失われたものが戻ってきた話で、神の民が道を外れししまっても戻ることができれば神は喜ばれるというテーマと捉えることができるだろう。信仰から外れたらそれで終わりということではない タグ キリスト教 新生活260週目 - 「見失った羊」のたとえ〜「無くした銀貨」のたとえ〜「放蕩息子」のたとえ の続きを見る
わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない(マタ12:7) 訳を検討することで得られることは少なくない。この憐れみという言葉はホセア書の新共同訳では愛という言葉になっていて、その言葉は英語では新約でmercy, compassion、旧約でmercy, loyaltyと訳されている。とても興味深い タグ キリスト教 わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない(マタ12:7) の続きを見る