キリスト教
新生活315週目 - 『「ぶどう園と農夫」のたとえ』
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マタイ伝もルカ伝もどちらかと言うと正義は我にありといったトーンが感じられる。一歩踏みとどまって「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」とはイエスは言わなかったのではないかと、考えてみるのも有用なのではないだろうか
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
昔から、主の祈りの「我ら」が何を意味するのかが気になっている。いろいろな解釈があることも知っているが、世が荒れている時こそ熟考が必要だろう
新生活314週目 - 『「二人の息子」のたとえ』
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第二朗読の「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。」は、人権の原点と捉えることができる。聖書朗読の個所は自分ファーストの考えに堕ちても悔い改めて本来の道へ戻ったほうが結果的に得になると読むこともできるだろう
新生活313週目 - 『「ぶどう園の労働者」のたとえ』
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朝から働いても、夕方にちょっと働いても報酬が同じなら、真面目に努力するなんてバカバカしいと思う人もいるかも知れないが、一定レベルの倫理観は保たれているという信頼があることなしには社会は成立し得ない
新生活312週目 - 『「仲間を赦さない家来」のたとえ』
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マタイ伝18:28で借金と訳されている単語ὀφείλειςはルカ伝11:4の主の祈りの罪と同じ単語。罪と借金が同義とは感じられないが、罪を評価額で考えるのが当時のあたりまえだったのだろうか。
新生活311週目 - 「兄弟の忠告」
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第二朗読の「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」と福音朗読の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」に関連性を感じている。その二人または三人が隣人の始まりと言って良いだろう
新生活309週目 - 「ペトロ、信仰を言い表す」
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かつて私は「この岩の上にわたしの教会を建てる」という言葉を単純に信じた。その言葉はあったかも知れないし、なかったかも知れない。ローマ・カトリックはそれを原則として成り立っていて、しかもその正統性を独占しているように見える。カトリック教会はかなり腐敗したり、危うくなった時期もある。権威の独占に溺れたと考えて良いだろう。共観福音書が複数あるように解釈は複数あってよいのだろう。伝統に奢らず真実を追求し続けたら良いと思う
新生活308週目 - 「カナンの女の信仰」
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マタイ伝では「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」と弟子たちがうるさがっているが、福音のヒント(2)でも「実は22-25節のやりとりはマルコ福音書の平行箇所にありません」とあるようにマルコ伝では同様の記述はない。弟子たちのイエスへの気遣いはある意味で醜い