新生活255週目 - 「(天に宝を積みなさい)〜目を覚ましている僕」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第19主日 (2025/8/10 ルカ12章32-48節)」。見出しは異なるがマタイ伝24章、マルコ伝13章に並行箇所がある。3年前の記事がある。

福音朗読 ルカ12・32-48

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
 32「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。33自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。34あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。
 35腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。36主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。37主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。39このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
 41そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、42主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。43主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。44確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。45しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、46その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。47主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。48しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」


「目を覚ましている」という言葉(γρηγορεύω)をどう読むべきだろうか。英訳ではWatchなどが当てられている。ルカ伝ではこの箇所だけに計2回使われている言葉だが、マタイ伝、マルコ伝ではどちらも6回用いられていて、ゲッセマネの祈りの箇所でも用いられている。印象としては、本来行うべき好ましい振る舞いができている状態という感じだ。

新共同訳では、22節からの部分の見出しが「思い悩むな」、35節からが「目を覚ましている僕」となっている。NIVでは、それぞれ、Do Not Worry、Watchfulness。ESVでは、Do Not Be Anxious、You Must Be Readyとなっている。Berean Standard Bibleでは、Do Not WorryとReadiness at Any Hourの間の32節にTreasures in Heavenという見出しがついている。32節の並行箇所はマタイ伝6章19節からの「天に宝を積みなさい」で「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」。最後の21節のギリシャ語はルカ12:34と完全一致している。マタイ伝では、ルカ伝とは逆に「思い悩むな」の前に置かれており、間に「体のともし火は目」、「神と富」がある。山上の説教の一部。恐らくイエスは繰り返し、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」と説いていたのだろう。

「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」は実感に合う。ドル建てやユーロ建ての預金や証券を持っていれば、為替も気になるし、預けてある金融機関の健全性も気になる。ファンドだと間接的なのでその先がどうなっているかをあまり気にしないが、株式を持つとその会社の状況が気になる。やはり金額が大きいところがより気になる。もう少し踏み込むと、円を持っていれば日本国家の健全性が気になる。

私はかつて砧教会への献金は天に宝を積むことだと信じていた。金井美彦が事実に向かい合わなくなり、役員会も迎合したと考えたときから、砧教会への献金は天に宝を積むことにはならないと考えるようになった。正直に言って、約50年間のすべての献金を返還してもらいたいと考えている。本来積むべきところに移し替えたいと思うからだ。無論、砧教会が地の塩として正常化することが望ましいのは言うまでもない。教会であれ、企業であれ、国家であれ、組織は人間が運営する。人間が集まれば様々な衝突が起き病むこともある。それは避けられないことだが、できれば避けたい状態である。もちろん、自分も病む。正常な判断ができないこともある。不要な論争で望まない悪影響を与えてしまうこともある。まあ、人間とはそういうものだ。

権力者は権益を持つ。権益を中心に考えるようになれば組織は腐る。国家であれば与党が腐れば国家が痛む。日本であれば不記載問題、裏金問題、宗教癒着。政党の権益を維持できなければ政党が成り立たなくなっているのなら持続性はない。公平なルールを作るためになされてきた積み重ねを大統領令でぶち壊す暴君を選ぶようでは先はない。私は、カトリックも何度も腐って危うくなったが、なんとか踏みとどまって現在を迎えていると思う。

「目を覚ましている」とは、神との約束を尊重し続けられていることだと読みたいと思う。ゲッセマネでは弟子たちは寝てしまったが、それで罰せられたわけではない。しかし、「目を覚ましている」べきだったことは言うまでもないだろう。

現代的に言えば、天に宝を積むということは、腐った組織に投資していた金を引き上げて、より望ましい投資先に移すことだと思う。NPOでも良いだろうし、ESG債でも良いだろう。自分の金ならリターンを求めてもよいと思うが、個人も権益から考えるべきではないと説かれていると取る。自分の富があるところに自分の心も引きずられる。言い換えれば、より弱いものからむしるようなことはするなということだ。

今日のコンテクストでParable of the Faithful Servant読むと、どうせ神は来ないと高をくくって権益指向に走っても、神は来るときには来る。現実に写象すれば、風向きは突然変わるということだ。油断してはいけない。

聖職者は多くを任された人であり、彼が腐れば世が悪くなるのだ。政治家も同じ。権益を求めて腐った政治家を選んではいけない。安易に勝ち馬に乗るのは破綻への近道だ。

※画像は、Parable of the Faithful Servant経由でたどり着いたAn etching by Jan Luyken illustrating Luke 13:41-48 in the Bowyer Bible, Bolton, England. 画像からはいまいち何を意味するのかは伝わってこないが、内面にかかわる記述なのでしょうがないとも思う。