- 新生活235週目 - 「悔い改めなければ滅びる〜実のならないいちじくの木」
WikipediaのParable of the barren fig treeのプロテスタントの解釈の節では「園丁はイエスです」と書かれている。 - パレスチナ史断章
求道者にはあまり進められる本ではないが、受洗後10年、20年を経た信者は、こういう本に向かい合う必要があるのではないかと思う。 - 新生活234週目 - 「イエスの姿が変わる」
神の声が聞こえたという記述はイエスの洗礼の時とこの不思議な物語の2回だけだと思う。共観福音書全てでこの物語は記録されているので、使徒たちの経験として語られていたことなのだろう。しかし、どの山で起きたことなのかは記録されていない。事実はあったのだろうか。 - 口語訳古事記
創世記を意識しながら、古事記を読んだら、ネフィリムの記述に類似性を感じた。独り神という記述は聖書にはなく、ずっと最初の神が今も活動している建付けになっている。古事記では、死ぬ訳では無いがいなくなる。だからどうというわけではないが読み物として面白い。 - 老いに立ち向かう2025事実を把握しようとすればするほど厳しい未来が待っていることを想像せざるを得ない。誰かのせいにして目をそらしても問題は解決しない。また、自分だけが逃げ切れればよいという誘惑に負けるわけにもいかない。「あなたは世界を良くするために生まれてきた」という普通科時代の先生のメッセージを忘れたくない。
- 新生活233週目 - 「誘惑を受ける」
荒れ野の誘惑は象徴的な記事だ。ただ、目に見える荒れ野に限らず、Fakeニュースに満ちた情報洪水社会だって荒れ野と考えて良いだろう。「切り取り動画」的なショートカット指向の誘惑に負けることなく狭き道を選び取れることが望ましい。 - 新生活232週目 - 「人を裁くな~実によって木を知る」
3年前に同じ箇所の記事を書いている。そのときには前週に勃発したウクライナ侵攻に言及している。先週、ゼレンスキー氏はトランプディールを拒否した。どの道が、「二人とも穴に落ち込みはしないか」でない好ましい道なのかはわからないが、ファリサイ派、律法学者のような権力側にいる人が、自分を一般人の外において特権がある、あるいは自分は盲人のようではなく正しい道を知っていると考えるようになってはいけないとイエスは繰り返し説いている。 - 古事記学者ノート(コジオタノート)
私が通った幼稚園は神社付属だった。柏手を打つことは当たり前のこととして受け取ったし、疑いも持たなかった。母が教会に通うようになり全く新しい宗教に触れ、教会学校に通うようになって多様な価値観の存在を知り、その価値を理解できるようになった。それでも初めて海外に出た1987年から20年を経ても日本は特別な国という呪縛からは逃れられなかった。今なら、冷静に記紀が読めるような気がする。 - Search API Japanese TokenizerをこのBlogに適用してみた
Drupalのデフォルトの検索では日本語の文章はN(3)-gram(移動3文字をトークン・形態素)として扱われてしまう。そのため検索品質が低いし「東京」では検索できない。Search APIに対応した軽量の形態素解析プラグインがalpha版ながらリリースされたので、当Blogに応用してみた。 - 新生活231週目 - 「敵を愛しなさい~人を裁くな」
現代の西側社会に生きている人は、イエスの時代とは異なり、その後のイエスの生涯、キリスト教の発展、体制化の歴史知識に基づいて聖書を読む。イエスから直接教えを受けた人は、そのコンテキストなしに教えを解釈した。当時は突拍子もない事を言う人だという印象を持ったに違いない。しかし、少なくない人が長い時間を経て、あのときのイエスの言葉は本当に正しかったと思うようになったのだと思う。逆に、現代人はコンテキストに縛られていることに注意しなければいけないと思う。