今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第25主日 (2024/9/22 マルコ9章30-37節)」。3年前の記事がある。マタイ伝17章、ルカ伝9章に並行箇所がある。
福音朗読 マルコ9・30-37
30〔そのとき、イエスと弟子たちは〕ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。32弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
33一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 34彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 35イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」36そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 37「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
3年前の記事で、新生活シリーズが「ついに52週目となった」と書いている。そろそろ満4年になるということだ。今は、再び砧教会の礼拝出席はやめ、再び「道をまっすぐにせよ」と声を上げる機会を探っている。砧教会が腐ったままであることを望まない。
一方で、Webの力を借りて能動的に聖書を読み、文章を書く習慣も200を超え、B年も2回目となり、2回目だからこその気付きも得られている。2020年6月7日問題は大変不幸なことだったが、それによって鍛えられていることも多い。感謝している。
後半の「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」は、私には強く響いてきた言葉だ。仕事を成し遂げていくためにはリーダーシップを発揮しなければいけないことはある。仕事の速度や質の僅かな差が、可能性を大きく左右する。打席に立たなければホームランを打つことはできない。可能性を広げるために頑張ってきた人生だったが、この言葉を忘れたことはない。どれだけ熱心に前に進もうとしていても、すべての人の後ろになり、すべての人に仕える者にならなければいけないと思ってきた。外から見れば、私がそういう考え方に立っているとはとても思えないだろう。実際、人のことを良く見る能力に欠けているので、思っていても実績はほとんど伴わない。しかし、仕事を成功させるというゴールと、一緒に仕事をする人、部下の明るい将来を願わなかったことはない。
仕事の世界に写象すれば子供は新人と読み替えて良い。教会であれば、新来会者と読み替えて良いだろう。
組織ビジョンに惹かれて新たに乗船した新人を大事にしない組織に明るい未来はない。ただ、現実にはその子供が将来ビジョン達成に貢献できる存在であるかはわからない。組織の能力には限りがあり、能力以上の愛情は組織崩壊を招くリスクがある。現実は厳しい。
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」は、好ましい行動規範となると思う。将来に希望をいだき、神の国の実現に向けて果てしない道を歩み続ける覚悟を求めている。即戦力になる確率的評価で差別を行うことなく、その能力の限りでできることをやっていけと私は取っている。
イエスの死後、弟子には当然リーダーシップが求められる。トレーニングを受けていても、みながリーダーシップを発揮して成果を上げられたわけではないだろう。しかし、福音、良い知らせは広く、浅く?人の心に届いた。現実重視に傾けば、競争と排除、専制と隷従に向かってしまうが、イエスの教えは包摂に向かい破滅へのブレーキをかける。生きつ戻りつを繰り返しつつもイエスの教えは規範として機能している。
「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」は、イエスに対する記述としか読めないが、「短期的には、愛は現実には勝てないが、たとえ個別に失敗したように見えても、また立ち上がる。だから、いかに現実が厳しくても愛の世界に生きなさい」という教えととっても良い。
2020年6月7日問題も大事件だったが、私にとってより大きな事件は2011年8月25日の脳虚血発症だ。ある意味、あの日から私は余生を生きている。もう世に迎合することはしない、良いことだけをして生きていこうと思うようになった。もちろん現実は厳しくできないことばかりだけれど、改めて「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」に忠実であろうと思う。
※画像は、ART UKのChrist Presenting a Little Child Benjamin West (1738–1820) Foundling Museumページから引用させていただいたもの