新生活52週目 - 「再び自分の死と復活を予告する」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第25主日 (2021/9/19 マルコ9章30-37節)」。ついに52週目となった。この一連のブログのスタートは「最初の日曜日には砧教会の聖書箇所を参考にさせていただいた」で2020年09月27日だ。新生活を始める覚悟をしたのは2020年9月21日で「死と宗教」で経緯を書いている。この一年の間に父が亡くなり火葬前に金井美彦氏に再会する事件があった。その事件を機に私は私の中にある真実をごまかして封印してしまうのを止め、彼(彼ら)の不義と再び戦う決断をした。何度も何度も祈って考えて自分が間違っているわけではないと確信したので、昨年のクリスマス以降砧教会のオンライン礼拝には参加している。もちろん、踏み出した旅が終わったわけではない。毎度ふさわしくないものがふさわしくないところに立っていると感じて不快になるが、礼拝には参加し続けている。どんな形になるかはわからないがやがて決着はつくだろう。生きている間に決着がつくかはわからない。

カトリックの福音朗読では9章前半はスキップされているが「イエスの姿が変わる」、「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」が収録されている。「イエスの姿が変わる」では3人の弟子たちが直接神の声を聞いていて、「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」には「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と弟子がイエスにたずねる話が書かれている。

前週の福音のヒントには『十字架と復活への道を歩む後半(8章31節~16章8節)へのターニングポイントとも言える重要な箇所です。』と書いてあったが、私は「イエスの姿が変わる」がそのターニングポイントの頂点だと考えている。なんとなくそのとおりのことがあったのではないかと思っている。それが事実であってもフィクションであっても気にはならないが、イエスの神は極稀に直接人に語りかけることがあるのが記録されているので、そういう事件もあり得るだろうと思う。弟子たちはイエスの死と復活の予告の意味をまだ理解できていないので、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という言葉が機能し始めるのは磔と復活の後だ。

ともあれ、今日は「再び自分の死と復活を予告する」である。ここで、福音朗読を引用させていただく。

福音朗読 マルコ9・30-37

 30〔そのとき、イエスと弟子たちは〕ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。32弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
 33一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 34彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 35イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」36そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 37「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

福音のヒントでは、受難予告にはいつも同じパターン『(a) イエスはご自分の死と復活を弟子たちに予告する。(b) 弟子たちはそれを理解できず、見当はずれなことを考えている。(c) イエスはその弟子たちにご自分の受難の道の意味を語り、弟子たちを同じ道に招く。』だと書いてある。わたしたちはその後を知っていて読んでいるからそのパターンを理解できるが、弟子たちが理解できないのは自然なことだ。だから、イエスは復活後に言葉が届くことを念頭に(c)の言葉を残しているのだろう。

前回は「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」が、今回は「だれがいちばん偉いかと議論した」。どちらもイエスがこの世の王になるという理解に基づいている。私はこの「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」に強い影響を受けている。この箇所と、黙示録3:20の「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」という句が結びついている。キリストはこの世の王のような支配者ではない。

今の私は子供は「無能力者」の象徴という考え方には立たない。まあ含意は変わらないと思うが、相手が権力をもっているかどうかで態度を変えるのではなく、自分のできる良いと思うことをただ行いなさいという話だと思っている。飢えているとか、病にあるとか、わかりやすい必要であれば、能力の許す限りやるべきことをやればよいが、どんな金持ちでも無限にばらまくことは出来ない。相手が欲しているものが危険なものであることもある。すべての人に仕える者になりなさいということはまずすべての人を受け入れる、存在を肯定するというところから始まる。相互に受け入れる関係が成立して共に食事をする、食事でなくてもよいが何かを共にすることで、奇跡が起きる準備が整う。受け入れるというのは一対一の関係だ。相手が権力者とか大きな会社の一員だから、Like mindedだから、あるいは国籍はもちろん割礼の有無など律法評価に基づく価値が高いからというような属性は関係ない。しかし、欲から自由になれないから、すべての人に平等に仕える者にはなれない。それでも「すべての人に仕える者になりなさい。」という教えは好ましい。イエスはいわゆる政敵である上級国民に対しても仕える者であった。仕えるというのは言いなりになることを意味するのではない。

すべての人に仕える者でありつつ信仰に基づいて歩みなさいというのが「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という神の言葉の含意だろう。誰かを敬うのではなくすべての人に仕えよということだ。