古い家を出て新しい旅に出るといって初めて迎えた日曜日。砧教会のFacebookページに「27日は《イエスの権威とそれを受け継ぐ弟子たち》と題して礼拝が守られます。聖書箇所「マルコによる福音書」6:1-13」とあったので、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」というフレーズで検索して、20本ほど説教や講話を読んで過ごした。古い家を出てと言ってみても、別に行くところがあるわけではなく、手がかりも僅かだ。数少ない手がかりの一つは教団の日々の糧、本日の聖句は「エフェソの信徒への手紙3・14〜21」。日々の糧と日本聖書協会の今日の聖句は毎朝読んでいる。日々の糧でも検索して数本の記事に目を通したが「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」で引くと本当に膨大な量の記事が出てきたので驚いた。
ナザレはエルサレムの北、約100kmに位置する場所。イエスの故郷と書かれている。田舎町だったらしい。2節に「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた」とある。改めて考えてみると、大工の息子の大工がシナゴーグで説教を担当したということで、何でそんなことが起きたのだろうと不思議に思った。ちょっと気になってググってみたら「イエス時代のシナゴーグの機能と役割―ガリラヤ地方テル・レヘシュ遺跡の新発見シナゴーグの意義―」という記事がヒットした。シナゴーグは立派な会堂などではなく一種のイベントスペースだったのかも知れない。今の日本で考えれば信徒説教のようなものだったのかも知れないし、近隣から只者ではないという噂が聞こえてきていて、話をしてもらってはどうかと企画が立ったのかも知れない。ただ、他の地とは違って、旅人として留まることが許された状態ではなく、自分の街だったわけだから注がれる目は異なる。
日本福音ルーテル教会の次世代育成プロジェクトの5年前のCSテキストではわかりやすい形で情景が書き出されていて、「イエス様のことを、自分の理解できる範囲内で捉え、分析し、理解しようとするなら、つまずくことでしょう。そうではなくて、そこに人間の力を超えた神様の働きのあることを信じ、願い求めていくならば、イエス様のことを正しく知る道が開かれていくことでしょう」とまとめている。理解の基本形として共感する。
別の16年前の「不信仰な故郷の人々」という説教ではヨブ記にも言及しつつ「神に答えを求める信仰、この世の知恵でなく、神が私たちの問題に答えてくださる。そのように信じる私たちの上に、今でも同じようにイエスの力が豊かに働くことを今日の聖書は反面教師のような役割を持ったイエスの故郷の人々の姿を通して教えているのです」と締めくくっている。前のテキストとも共通するが「この世の知恵でなく」という視点が際立つ。私自身は、こういう考え方は危ういと考えている。やはりまず「この世の知恵」は追求すべきだと思っているのだ。真摯に分析し、理解しようとすると、すぐ自分の限界に気がつくことができる。簡単に結論を出せば、真理に近づくことはできないと思う。確かに、故郷では情報がたくさんあるから、そこから単なる他の人達と変わらない一人という結論を導きやすい。周りの人がどう言っているかに引っ張られてしまいやすい。しかし、チャンスはあった。2節に「この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」と書かれていて、普通の一人の男という膨大な情報で解釈しきれない何かがあるのに気づいた人はいた。何かあると心に留めた人はいただろう。逆に、そういう情報を持たない他の地でイエスを信じた人たちの多くの信仰は浅いものかも知れない。
別のテキストでは、「五節の報告は注目に値します。医者を求める者以外は、助けたくとも助ける事が出来ない」を結びにかえて主張していた。「牧師を信用しない会衆を導くことはできない」と読み替えればよいのかも知れない。イエスを信用できなかった故郷の人は不幸であるという主張だ。
横浜指路教会の「故郷、親戚、家族の間で」という説教では「主イエスご自身でさえこのように拒まれたのだから、私たちが主イエスのことを宣べ伝える中で、相手の人が、さらには家族や親戚の者たちが、それを簡単に受け入れないのはむしろ当たり前だ、ということです。むしろそのように拒まれる方が自然なのであって、それで落ち込んだり動揺する必要はないのです」と書かれている。示唆に富む。
読んだ記事の中に「年間第14主日 (2018/7/8 マルコ6章1-6節) 」もあった。「福音書の中で「信じること」とは、「何かの信仰箇条に同意する」ということではなく、「神に信頼して、自分を委ねていくこと」です。そしてそれは神の救いを受け取るために、必要不可欠な人間の態度なのです」とある。まあそういうことだな、と思った。この記事ではテキストより、
Author:幸田和生
特別な指導者がいなくても、次の日曜日のミサで読まれる福音の箇所を前もってだれかと一緒に読み、分かち合い、ともに祈ることができたらすばらしい。そんな「聖書の集い」のためのヒントです。
が気になった。今風の言い方をすれば、この「聖書の集い」は、主日礼拝の反転授業化、あるいはアクティブラーニングの提案とも言える。とても興味深い。「司祭が定住しておらず信仰養成講座がほとんど開かれていない共同体などに、特にお勧めしたいと思います」と書かれていて、オンラインの集会でも構わないようにも読める。いずれにしても、コンテンツは公開されているので、しばらくこのページに従って学んでみようと思う。ちなみに、幸田氏はカソリックの司教。理由は分からないが、東京教区補佐司教を2018年に退任している。
人間関係はしばしば信仰生活の躓きになる。他の宗教と同じく信者が集まらなければこの世で経済的に持続可能でない。一方で、物理的な会堂が不要になれば、必要なコストは減る。デジタルコンテンツはくり返し使えるし、相互に関連を持ちながら成長させられる。ひょっとすると、この「聖書の集い」の提案は感染症時代の教会のありかたの一つの解を導くものかも知れない。
気をつけるべきこととされている「相手を批判しない、議論しない」には訓練が必要だ。分かっていても私はとても苦手でしばしば間違える。そういう性質をもつ自分と向き合いながら歩みを進めていくしかない。