ライフスタイル

10年後の社会

10年後、私は69歳。まだ元気に活動できる状態である可能性は高いと思っているが、現在よりは身体能力は落ちているだろう。

れいわ新選組の船後靖彦氏の国会参加は私にとって一つの希望である。私にとっては、あらためてユニバーサルデザインに注目が集まると思うことが良い知らせだ。Wikipediaで検索すると以下の7条件が出てくる。

hagi 2019/07/29(月) - 10:23
子供の頃、普通は嫌で、普通にあこがれていた

子供の頃、普通は嫌で、普通にあこがれていた。でも、学校、学年学級は与件で疑いは持っていなかった。私は通う学校が一つである必要は無いと思う。
同質性の高い空間では、単一のものさしで測って優劣を競う。成績の善し悪しや競争のタイムもそうだ。それは分断を生む。体育系とか理系とか軸を選んで、他を異質なものとして排斥する。
現実の社会は多様性に満ちている。一番身近な違いは性別と年齢だろう。
学年学級男女別学は同質性を高め差を小さくする。常勝者が出にくいから具合が良い。男女を混ぜると物理的な力での優劣は越えがたくなり男子優位が「あたりまえ」に思うようになってしまう。いつの間にか、隷従が美徳に変わってしまう。
安全が保障されるようになれば、隷従は継続し得ない。半数(女性)が不利になるような常識あるいは普通の考え方は長期で見れば続くことはあり得ない。
多様性あるいは「ごちゃまぜ」な空間が機能するためには、一人ひとりの安全と尊厳が守られている必要があると思う。決してやさしい事ではない。しかし、専制の誘惑に抗う訓練は必要な事だと思う。入学選考基準で絞りすぎると疑似理想郷の実現になってしまって社会と乖離してしまうし、ゆるければ差別意識に汚染されてしまう。

hagi 2019/07/01(月) - 20:14

Imagine

hagi2019/06/26(水) - 16:35 に投稿

ジョンレノンが歌った頃は、東西問題も南北問題もリアルに存在していた。ファクトに基づいて考えれば、東西問題も南北問題も今は存在していないと言っても良いようになった。ゼロにはなっていないが、共通ルールに基づく協力は可能になったし、国家間格差も比較すれば激減している。そして、さらに削減することはできるし、むしろ気象問題など協力しなければ解決できない問題の方が深刻であることが分かってきている。

しかし、そういう方向への変化が嫌な人はいるのだ。力で解決したい野蛮さに立ちたい人はいる。フェアな競争ではなく、アンフェアな方法でも勝ちたい衝動を抑えられない。誰にもそういう悪魔の誘惑は働きかけてくる。ついそちらに流れないで一歩踏みとどまって自分の頭で考えよう。

国はあっても良い。宗教もあっても良い。世界が一つになれなくても良い。しかし、国や宗教が人を傷つけない世界は目指すべきだ。
「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しよう」

日本は国政選挙を迎えつつある。
「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しよう」
まず、最初の一歩として、嘘つきを権力の座につけないようにしようではないか。

文章に内在する訴求力は書いた人の思いが宿ると思う

hagi2019/06/21(金) - 23:24 に投稿

天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり
生るに時あり死るに時あり 植るに時あり植たる者を抜に時あり
殺すに時あり醫すに時あり 毀つに時あり建るに時あり
泣に時あり笑ふに時あり 悲むに時あり躍るに時あり
石を擲つに時あり石を斂むるに時あり 懐くに時あり懐くことをせざるに時あり
得に時あり失ふに時あり 保つに時あり棄るに時あり
裂に時あり縫に時あり 黙すに時あり語るに時あり
愛しむに時あり惡むに時あり 戦ふに時あり和ぐに時あり
働く者はその勞して爲ところよりして何の益を得んや

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時
裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。

アメリカの中絶問題に感じる民主主義の限界

hagi2019/06/18(火) - 16:53 に投稿

アメリカではキリスト教保守派(むしろ原理主義)が猛威をふるっており、ハートビート法といわれる中絶禁止法が複数州で成立した。

心臓が鼓動を打ったら、それ以降は中絶は殺人という考え方で、堕胎術を行った医師は99年の刑に問われる可能性がある。レイプされて妊娠しても妊娠した女性に選択肢を認めないわけだから、悲惨な思いをする事になる人もいるだろう。

Pro-Life、Pro-Choiceというキーワードにすると、生命優先主義、親の選択権優先主義という単純化がなされる。原理主義的には中絶は殺人で、さらには避妊すら許さないという考えに立つ人もいる。Pro-Choiceの人の中にもキリスト教の信者は少なからずいて、宗教に関わらず殺人はいけないことだとほぼ全員が考えていると言って良いだろう。ハートビートから生きた人間と考えようよと言われたら、異議は表明しにくい。

一方で、望まない妊娠をした人にとっては、中絶の違法化は自分の人生の選択肢を奪う。結局、間接的にその人の命を奪うことになるかもしれない。

原理主義は、意見を集約しやすいのだ。その上、内側と外側を区別して、外側にいる人を人間として見ることすら難しくさせる。宗教の持つ悪魔性だ。本当は内側に留まれるのは単に運が良いだけだし、そもそも内側という概念そのものが幻想だろう。

寂しがり屋のノマドとコワーキングスペース

hagi2019/06/03(月) - 12:19 に投稿

先日CUASIAの報告会のパネルで、コワーキングスペースに行くノマドは寂しがり屋だという発言があった。

彼女の説では、寂しくないノマドも居て誰にも会わなくても全然平気なタイプの人もいるそうだ。しかし、私の知る限り、長期に渡って寂しさを感じない人はほとんどいない。

私は、今固定的なオフィスを持たずに働いているので、在宅もあるけれどある種ノマド的な働き方を行っている。つまらない事だが、ワークプレースでおはようございますと挨拶したり、仕事終わりにお先に失礼しますと言ったらお疲れさまでしたと答えが返って来るかどうかだけでモードが切り替わる。特に、誰かと話がしたいというわけではあまりないが、気分の切り替えがうまく機能しないと生産性が落ちる。私の場合は、モード切替のために何気ない話であっても会話のできる場所に足を運ぶ。コワーキングスペースやカウンターバー、カウンター喫茶はそういう場所の候補だ。オフィスワークをしていた頃は、基本的にはサードプレースは無くても困らなかったが、今の私にはそういう場所が必要だ。寂しがり屋である。

Google FI

hagi2019/05/08(水) - 15:29 に投稿

Google FIはGoogleが米国で展開しているMVNOによるモバイル通信サービスである。

私は2009年にアメリカに赴任した時に、T-mobileでアンドロイドデバイスのT-mobile G1を契約した。今も、その番号をずっと維持している。銀行口座もクレジットカードも口座開設後10年を超えて継続利用している。

Googleからキャンペーンのメールが来たので、今回出張時に思い切って、T-mobile (iPhone SE)からGoogle FIにナンバーポータビリティを利用して契約切り替えを行った。T-mobileも国際ローミングが使えるので、日本でもインターネットを月に1GBまで利用できサービスには満足していた。ただ、米国外では追加料金を払わないと4Gのスピードがでないのと、自分の求める使い方だとGoogle FIの方が料金が安い。

自己責任あるいは自業自得

hagi2019/05/07(火) - 18:38 に投稿

過去のコンタクトを復旧できる範囲で見直している。記念として取っておいた名刺には、Scott G. McNealy氏やSteve Ballmer氏のものもあった。また、自分の名刺の未使用分など100種類ほどが見つかった。もちろん、離職前に挨拶に行ったりして離職後にも関係を続けたいと断った人以外についてそのコンタクトを使ったことはない。今は、SNSやLinkedInがあるので、検索して見つかって新たにコンタクトを取れば良いだけだから、どうせ名刺など直近で交換したものを除けば使うことはない。この度、それらの記念品も処分することにした。

1,000枚を軽く超える記念品を眺めていて、思い出すことのできない人も半分以上いる。研究会の懇親会や交流会、たまたま一度だけあった人などよほどのことがなければ記憶に残らない。しかし、一度で強烈な印象を残した人もいるし、仕事が変わってビジネス上の関係がなくなっても、10枚を超える異なる名刺を受領した人もいる。中には他界した人もいるし、疎遠になった人も少なからずいる。

アクセシビリティへの配慮は恩恵を伴う

hagi2019/04/19(金) - 21:46 に投稿

今回の米国出張で、DrupalConではブラウザの音声読み上げの事例を見て、いかに見た目がスマートなアプリでもアクセシビリティの配慮がないと難視の人には使えないだけでなく、Alexaのようなスマートスピーカーと組み合わせて使えないだろうこともわかった。マウスを使わずにキーボードだけで利用できる実装にすると、ナビゲーションのステップを減らし可用性を上げられる事にも気がついた。アクセシビリティへの配慮は手間のかかる作業と見るのではなく、ソフトウェアの操作性を向上させるためのチェックポイントと考えたほうが良いことがわかったのである。