最近、礼拝説教で驚かされることが多い。
今日は、マタイ伝11章の「悔い改めない町を叱る」の段。牧師は「お前は不幸だ」は悲嘆を感じさせる感嘆詞をコラジンに付したと取れると言った。びっくりした。礼拝後にbiblehubをあたってみると不幸だという単語はοὐαίでBSBではWoe to you, Chorazin!(災いだ、コラジン!by DeepL)と訳されている。Woeという単語には悲哀、悲痛、悩み、苦悩、災難、災い、といった意味がある。不幸だと訳してもおかしくはないが、「悲哀を感じる、コラジン」と訳しても良いだろう。
このοὐαίは福音書では多く利用されている単語で、マタイ伝だと23:15で「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」で用いられている。この訳だと明らかに彼らを糾弾していることになるが、もしこの訳に「あなたたち偽善者に悲哀を感じる」を当てると糾弾よりは愛のある悔い改めの推奨に読めてくる。かなり印象が変わる。
お前は駄目だ、と、なんとか踏みとどまってくれ、程度のニュアンス差がある。自分が投影してしまうイエス像に近づく。
そうであっても、受け手が糾弾と取るのは自然だし、負け組視点で読む人にとっても糾弾に喝采したくなるツボに刺さる。
この言葉はマルコ伝では2箇所、小黙示録とユダへの記述で用いられている。ルカ伝では6章の「幸いと不幸」の段で用いられている。「富んでいるあなたがたは、不幸である」で最初に出てくる。同じコンテキストで考えると、今順調でない人も風向きは変わるし、今順調な人もずっと風が吹き続けるわけではないと取れる。そう考えると、最大の転換と言える、磔刑による死亡からの復活につながるものと考えることもできる。
翻訳はともするとウケ狙いになる。もともとの記述の時点でも響く表現が使われやすい。事実を忠実に記そう、あるいは原文に忠実に訳そうと考えても、乖離は避けられない。