今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第15主日 (2025/7/13 ルカ10章25-37節)」。印象的な記事なのに並行箇所はない。ただし、前半部はマタイ伝22章、マルコ伝12章の「最も重要な掟」でイエスが回答した内容を律法学者が答えた形になっている。3年前の記事がある。
福音朗読 ルカ10・25-37
25〔そのとき、〕ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
善いサマリア人の話は、編集者加筆で実際にイエスが言ったことではないのではないかという疑義も提示されているらしい。英語版WikipediaのParable of the Good Samaritanでも論争があることに触れられている。「エルサレムからエリコへ下っていく途中」についても触れられていて、キング牧師が追いはぎが起こりそうな場所であることを述べている。自分の目で見たわけではないが、傾斜が激しく岩砂漠を渡っていく場所だから、注意が必要な道であったのだとは思う。エルサレム近郊なので祭司などの行き来もあったかも知れない。イエスの時代には一応ユダヤの独立が認められているとはいえローマの支配下にあり、祭司の権威は相当低下していただろう。民衆から見ると、追いはぎに襲われた人を見捨てる祭司など面従腹背の対象だろう。もし、このやり取りが本当にあったとすると、民衆は律法学者に対して、どうせお前は保身を優先する輩に過ぎないだろうという目で見ていたのではないだろうか。その評価を痛感しているから「その人を助けた人です。」という答えをしないわけにはいかない。民衆は溜飲を下げ、指導者側はより危機感を高めた。
第一朗読は申命記30章。福音のヒントの第一朗読は手が加えられているが、新共同訳では「あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。」とある。「最も重要な掟」の第一の部分の引用となる。この言葉は29章からの出エジプト終盤のモーセのスピーチの一部で、民衆の無理解を指摘した上で、まもなく到達する約束の地では、主に立ち返ることになると述べている。
申命記を含むモーセ五書はおそらくバビロン捕囚後に書かれたもので、言ってみればある種日本書紀のようなものとも言える。指導者層の正統性を導くための書物と考えることができるからだ。政治的には神の権威を背景にして指導者層の権力を正当化するものと言え、多くの民衆は本音ではその神を信じてはいない。しかし、運を支配する神の存在は感じている。また、ルールは必要だし、法執行力を有する組織も治安維持のためには不可欠で、運を支配する神の支持を得ている必要がある。モーセはその要件を満たした指導者として書かれている。歴史を重ねた指導者層にはカリスマ性は希薄だ。つまり、運を支配する神の支持は得られているようには見えない。そうなると自分を制度的に守る必要が生じ、少しずつ律法解釈が指導者層に有利な方向に改変していき、民衆に対して防衛的になる。
指導層にも、その予備軍にも、本当に信仰があり、本当に善人であろうと必死で努力する人はいる。他方、自分のためにより高位を目指す人もいる。民衆は善悪にかかわらず力がある人により頼むことになる。弱くては困るが、できればきちんとした人にしかるべき地位に就いてもらいたいと考える人は少なくなかっただろう。「善いサマリア人」は、好ましい民衆リーダーの候補と言える。サマリヤ人とユダヤ人は対立関係にあるが、そのような属性とは無関係に愛を働かせる人はいる。血筋は本質的に関係ない。
民衆は自由奔放に振る舞いつつ、ならず者でもなく、知識があって、共生と助け合いを説くイエスを期待するようになった。外形的には宗教改革運動に近く、カトリックに対するプロテスタントに通じるものがある。宗教指導者に依存するのではなく、直接神の教えに従えと説いている。本質的な教えは主体が外国人(サマリア人)であるかどうかには関係ないという主張は、宗教指導者にとっては痛い。
イエスは民衆の期待する政治力を行使しない。結局逮捕されてしまう。しかも、蜂起せよと扇動もしなかった。民衆の多くは、イエスは担ぐには弱すぎると見捨てたというのが現実だろう。それでも、その教えは心に留まったので、やがて大きなうねりにつながっていく。復活のイエスに出会ってカリスマ性を得たパウロなど、聖霊に守られた人たちが大きく貢献し、粛清されて教会は強力になっていった。
第一朗読の申命記は、ヨシヤ王の中央集権的宗教改革の思想が強く出ていて、神-宗教指導者(モーセの末裔)-民衆の構造が強く出ていて、申命記だけでなくモーセ五書も指導者側に都合が良い形に編集されていると思われる。仲介者に権力を集中させるモデルだ。当時のサンヘドリンもその流れを汲む集団と考えてよいだろう。
イエスは申命記に埋め込まれている仲介者の優越を認めず、直接「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」に従えと説いた。
現実には、個々人の努力だけでは、追いはぎの被害者を救い続けることはできない。法制度を高度化して、社会福祉を増進させるしかないだろう。大統領や総理大臣、あるいは王族に巨大な権限を与えても問題は解決できない。
イノベーションが起きなければ、社会福祉の原資を得ることもできない。愛を倫理の中心に置き、手を抜かずにより素晴らしい社会の実現に注力せよというメッセージは極めて現実的な選択と言えるだろう。
得られるはずの権益が得られなくなると、悪者を探したくなる人が増え、排他的な言説が民衆に受け入れられやすくする。悪者を退治してくれそうな人または集団に依存するようになると、事態はさらに悪化する。あくまで、万民に幸福増大をもたらす制度を広く整備していく道を探れ、そのために助け合えとイエスが説いていると私は理解している。
改めて考え直してみると、強大な権力を獲得した教会は腐敗も生んだ。イエス時代のサンヘドリンと共通する神と民衆の間に存在する仲介者化も起きた。プロテスタントが教えの原点に回帰したことで、カトリックも健全化が進んだと言えるだろう。人はどの民族であるかとか、指導層側にいるかいないかといった属性に関わりなく「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」を実践しなさいという教えは、美しいと思う。
※画像はOld Road From Jerusalem To Jericho。道からちょっと入れば、荒野の誘惑が想起される空間が待っているのだろう。