キリスト教
民事訴訟に学ぶ8

本日2020年10月11日に和解調書のコピーを受け取った。
「被告らは、日本基督教団砧教会の今後の運営に当たり、教会の規則を始めとする手続きを遵守してこれおを行うものとする。」と宣誓するのは、これまで守ってこなかったと告白するのと実質的には変わらない。もちろん、守らなかった事実が明らかになったわけではないので、被告らは破っとことはないが、守れと求められるのならこれまで通り守るのだから問題ないと言うことはできる。後は、他人がそれをどう見るかという問題となる。以下の添付は、住所を墨消しした和解調書である。
新生活107週目 - 重い皮膚病を患っている十人の人をいやす

現代にもまだ残る良からぬ人だから病にかかるのだという誤解に基づく悲惨は先入観を解かないと解消されない。ただ、そいういった問題を解決するには勇気を持ってリスクを取る人が必要になる。救われる人も救う人も神は見ている。
民事訴訟に学ぶ7
和解の方向となった。
新生活106週目 - 赦し、信仰、奉仕

使徒たちの「わたしどもの信仰を増してください」という求めは何を意味しているのだろうか。私は、自分が本当に何を求めているのかわからないままに願ったり祈ったりすることがある。ただ、動いている内にわかってくることもある。
新生活105週目 - 金持ちとラザロ

地獄絵を想像させる箇所で、世の東西を問わず恐怖で善行を促すような話に読める。私は、福音書記者の不適切な加筆が含まれていると考えているが、事実はわからない。
宗教の排他性について
宗教的な教義が検証不能な事実に対する信仰を求めるのは自由だが、信じるものと信じないものの間に線を引いて排他的に扱うことは規制されるべきだ。壁を低くするべきという観点では、宗教だけでなく国も同じ側面を持つ。
民事訴訟に学ぶ6
まだまだ終わらないが、自分の中でもある程度整理は進んできている。やがて何らかの出口に至る日が来るだろう。
新生活103週目 - 「見失った羊」のたとえ〜「無くした銀貨」のたとえ〜「放蕩息子」のたとえ

SDGsと共に用いられる「誰ひとり取り残さない」というスローガンと通底する印象を与える箇所だ。