キリスト教

砧教会は役員の引き受け手が不足し定員割れとなった

いくら体裁を整えても役員の引き受け手が不足し定員割れとなった事実をごまかすことはできない。そういう事態に陥った原因は責任者である金井美彦氏にある。結果責任として萩原高行に責任添加することはできない。本当に腐ってしまったのであれば切り離さなければいけない。

新生活134週目 - 「イエス、弟子たちに現れる〜イエスとトマス〜本書の目的」

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Jesus_appears_to_his_disciples_after_he_has_risen
私は、復活のイエス、あるいは昇天前のイエスが22、23節の言葉を発したとは思わない。編集者の加筆または解釈表明だろう。ただ、まあそういう記事が残っても良いかとも思う。現代なら、様々な意見を玉石混交とはいえインターネット検索することは容易だ。

Bible Hubの話

Bible Hubの詩篇22篇にはאֵלִ֣י (’ê·lî) אֵלִ֣י (’ê·lî) לָמָ֣ה (lā·māh) עֲזַבְתָּ֑נִי (‘ă·zaḇ·tā·nî)という原語聖書が掲載されている。

新生活132週目 - 「ピラトから尋問される〜死刑の判決を受ける〜兵士から侮辱される〜十字架につけられる〜イエスの死」

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Christ in front of Pilate
イエスはなぜ自分を救う選択をしなかったのか。それは神が許さなかったのだろうか。もし、自分を救う力をもっていたとしたら驚異的な忍耐力だ。しかし、宗教的な視点で見れば、彼が人間として死ぬことで時代は変わった。

新生活131週目 - 「ラザロの死〜イエスは復活と命〜イエス、涙を流す〜イエス、ラザロを生き返らせる」

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Tomb of Saint Lazarus in Bethany
「ラザロの復活」として記憶したヨハネ伝だけに記されている物語。イエスの復活と区別するために「ラザロの蘇生」と標記する記述もある。新共同訳の見出しでは「イエス、ラザロを生き返らせる」となっている。ヨハネ伝らしい箇所の一つで、今の私には違和感が強い箇所でもある。

新生活130週目 - 「生まれつきの盲人をいやす」

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La_curacion_del_ciego_El_Greco_Dresde
自分の「欠け」を認められなくなって共に歩もうとするものを排除すれば「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」という言葉に直面することになる。事実を無かったことにしても事実は無くならない。そして、罪が残る。

砧教会の会堂礼拝参加は連続4週目

礼拝前、当初は、金井美彦氏は文書の配布をやめてくれと言い、くり返し求めると受け取り、やはり返却すると言った。返却は受け取らないと言い、受け取っても読まないがそれでも良いかと問われたので、それで良いから受け取れと求めた。礼拝後、金井美彦氏は受け取った文書を受付に置いて公開すると会衆に宣言した。その判断は立派だと思う。決して彼は腐りきっているわけではない。