新生活159週目 - 『「ぶどう園と農夫」のたとえ』

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第27主日 (2023/10/8 マタイ21章33-43節)」。マルコ伝12章、ルカ伝20章に並行箇所がある。

Wikipediaでは、ぶどう園と農夫のたとえがあり、英語版のタイトルはParable of the Wicked Husbandmenとなっている。邪悪な農民のたとえとでも訳せばよいのだろうか。タイトルの印象はかなり違う。

福音朗読 マタイ21・33-43

 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕33「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。34さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。35だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。36また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。37そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。38農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。40さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」41彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」42イエスは言われた。 
「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。 
 『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。 
  これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』 
43だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。

福音のヒント(1)では、39節の「ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」を「イエスが当時エルサレムの城壁の外にあったゴルゴタの丘で処刑されたことを反映しているようです」とある。これまで私は意識していなかったが、この部分を過去の預言の実現ととらえればなるほどと思えてくる。

並行箇所の存在から考えても、この話は本当にあったと考えるのが自然だろう。

この箇所の、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」はしっくりこない。イエスはイスラエルに重点をおいて活動していたように読めるので、本当に他の民族に神の選びが移るという発言をしたのであれば変心したことになる。もう十字架までの期間が僅かになって、ユダヤ民族を見捨てたのだろうか。預言の実現が、ユダヤ民族の優位性の喪失を意味するのだから皮肉なことだ。

現実には、ユダヤ人国家はなくなり、キリスト教の中心地はローマに移った。そして季節ごとに収穫を収める能力、信徒の拡大は飛躍的に高まった。民族宗教ではなくなり、世界宗教になった。イエスの父なる神はユダヤ教の神としか考えられないから、同じ神から出た正しいことの解釈の違いが宗教の違いとなった。イスラム教の神も同じ神だから、人間側の解釈の違いで対立が生まれたことになる。キリスト教の内部にも宗派による違いはあり、様々な対立がある。恐らく、永遠になくならないだろう。

改めて読むと、今日の箇所は非常に重い意味を持つことに気がつく。

福音のヒント(1)では、以下のように解説している。

43節の「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」はマタイだけが伝える言葉で、明らかに「あなたたち」はユダヤ民族を、「ふさわしい実を結ぶ民族」は異邦人を指しています。しかし、これは福音書の文脈には合いません。福音書ではイエスが批判しているのはユダヤの指導者たちだからです。マタイは伝承に手を加えて、新しい意味を見いだしているのだと言わざるをえないでしょう。

マタイ伝の記者が伝承に手を加えたという解釈には説得力があるが、そういう常識的な視点に引きずられてマルコ伝、ルカ伝の記者が話を小さくしてしまったという可能性もある。後に起きた事実を考えると、イエスはこの時点で民族との結びつきを捨てていたと解釈することはできる。三位一体説に従えば、イエスはをイエスの父なる神はと言い換えても良く、この時点で民族宗教の時代は終わったと考えても良いだろう。

現代ではユダヤ人もその意味が民族を示すものではなくなっている、Wikipediaによれば「現状では国籍、言語、人種の枠を超えた、ひとつの尺度だけでは定義しえない文化的集団としか言いようのないものとなっている」と書かれている。宗教を力として捉えると、人口の大きさは決定的な意味を持ち、民族で縛りを入れるのは明らかに不利だ。イエスが意識していたかどうかはわからないが、この転換で宗教としての潜在的可能性はキリスト教の方が大きくなったと考えるべきだろう。

私は、神はいるという前提で生きている。旧約の神解釈は民族の神であり、祟る神に見えるが、新約の神解釈は個を活かす愛の神だ。冷静に引いてみれば私は神はいてそれが愛の神であったら良いのにという願望にしがみついていると言っても良い。御心にかなうかどうかを決めるのは最終的には自分だから、個の間に対立が生じないわけがない。

この箇所はイエスの正統性を高める箇所だが、自らの生き方の決定には全く影響しない。福音のヒントにあるように、自分たちがぶどう園にいるとして、高慢になっていないか注意しなさいという話として取ることはできるが、今の私はぶどう園から排除された状況にあるので、やれることは、ぶどう園の支配者にお前は間違っていると言う程度のことしかできない。

※画像は英語版Wikipediaに出てきたサンヘドリンの絵。WikipediaのParable of the Wicked Husbandmenではサンヘドリンに対する言及、イスラム教から見たイエスの位置づけにも触れられている。