今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第31主日 (2023/11/5 マタイ23章1-12節)」。マルコ伝12章とルカ伝20章に並行記事がある。福音のヒントでは、ルカ伝11章を上げている。マタイ伝の記述は長い。
福音朗読 マタイ23・1-12
1〔そのとき、〕イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。4彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
「人に見せるためである」というのは分かりやすいが、一歩踏み込むと、神と人との間に割り込むことを意味している。律法学者やファリサイ派の人の多くは誠実に学び神の教えを言語化するのには長けていただろう。私は、イエスに批判されている律法学者やファリサイ派の人が少し可愛そうだと思うことがある。ただ、どんなに鍛錬を積もうとも人間は人間で、神の視点で見れば同じ存在である。人間の視点で見れば、アブラハムやモーセ、預言者は特別な存在に見えるが、それは人間の視点であって、たまたま神が選んで役割を与えたに過ぎない。もちろん、有能な人に真理の追求をしてもらい、より良い世界を作ろうとすることは好ましいことだと思う。だから、「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。」は賛辞である。イエスもその努力を認めていないわけではない。ただそれは役割であって、役割でしか無い。正しく教えを伝えることは使命だが、自分が特別な存在、神に代わる存在と考えてしまうと、とんでもない過ちを犯すことになる。人が、御心を知ることを助けるのではなく、神に代わって人を分け隔てしてしまうのは決してやってはいけないことだと、イエスは言っているのだと思う。つまり、神と人との関わりの間に立って邪魔をする存在に落ちてしまっているということになる。「言うだけで、実行しないからである」という結果になる。私は、律法学者やファリサイ派が人助けをしないとは思わない。時には私心に落ちることもあるかもしれないが、弱者に不正を行うような存在ではなかっただろう。でも、神の代理の誘惑にさらされてしまって堕ちてしまうことはある。人間は弱く、一度堕ちてしまうと底なしに堕ちてしまうリスクがある。犠牲者も増大し、場合によっては戦争のような悲惨を招く。「仕える者になりなさい」は、神と人との間に割り込むことではなく、その能力を発揮して助けられることがあればやりなさいということだ。心の底から良いことをしようと思って取り組んでもうまく行かなかったり裏目に出ることもある。その時疑うべきは、自分が神と人との間に割って入ってしまっていなかったかの確認だろう。
時代とともに常識も変わる。性差による差別は許されない時代になったし、信仰に基づくように見える正義より、流した血の多さの方に注目が集まるようになった。政治家や宗教指導者が神と人との間に割り込むことがないように制度も整備は進んでいて、暴君が長居できる期間は短くなっている。悪い面は目に付きやすいが、長い目で見れば、世の中は良い方向に動いていると思う。今は、揺り戻しの時期にあるが、やがては是正されていくだろう。時代の流れで出る犠牲者が少しでも減るためにできることをやればよい。一人ひとりは大してできることはないが、強きにならうのではなく、愛にならうのが良い。
※画像はWikimediaから引用したJames Tissot: Woe unto You, Scribes and Pharisees。