新生活161週目 - 「皇帝への税金」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第29主日(2023/10/22 マタイ22章15-21節)」。マルコ伝12章とルカ伝20章に並行箇所がある。

福音朗読 マタイ22・15-21

 15〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。16そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。17ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」18イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。19税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、20イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。21彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」は印象的な言葉である。デナリオン銀貨はローマの信用に基づいた価値を表すもので、物やサービスの対価となる。神の信用に基づいた通貨はあるのだろうか。命を神の領域と考えると、神の信用に基づいた通貨が存在すれば、それで命の売り買いができることになる。そんなものは存在しないし、もし存在すれば現実は地獄になる。悪魔の囁きは、あなたはその通貨をもっているのだから遠慮なく使いなさいという囁きにほかならない。少なくない人間はその囁きに負けて堕ちてしまう。

現実的には、この世の権力には従わざるを得ない部分がある。税金を納めなければ生き続けることは難しい。一方で、皇帝も自分の命を買うことはできない。上手にやれば権力を買うことはできるかも知れないが、生き続けることはできない。神と取引することはできない。

ユダヤの指導部は建付けとして神から認められた存在として権威を得ている。もちろん、個々人は死ぬから構成員は入れ替わっていくが、与えられた権威は残り続ける。預かった権威であって、その権威は人に属するものではない。預かった権威を自分のものと勘違いしてしまうと、やがて破綻する。例外は無い。

イエスがファリサイ派の人に神のものは神に返しなさいと言ったことには大きな意味を見出すことができる。イエスはイエスを通じて神がこの世に関与していると主張しているわけで、イエスを否定するということは、神のものが自分に留まっていると主張することにほかならない。神のものを神に返せば自然に神からイエスを通じて起きる神の関与を受け入れることができるようになると受け取ってよいだろう。

福音のヒントの最後の部分で『「神のものは神に」=「あなたは何が本当に神のもので、何を神に返すべきものだと思っているか」それは、わたしたち一人ひとりに向けられた問いでもあるはずです。』とある。その答えは「すべて」だろう。返却を求められれば返さない訳にはいかないし、どうせ抗い切ることはできない。

「神のものは神に」というメッセージが下った時に、保身に走れば全てを失うことになる。金井美彦も佐分利正彦も砧教会も真実を覆い隠し続けることはできない。命あるうちに、悔い改めよ。

※画像はWikimeidiaから引用させていただいたイエスの時代のデナリオン銀貨。