新生活193週目 - 「過越の食事をする」 つきつめて考えれば、やはり聖餐式も祝祷も単なる儀式でしかなくそれ自身は空虚なものだ。ありがたがるのはナンセンスだと思う。一方で、儀式があること、それを繰り返すことは心の状態に大きな影響を与える。それを専制と隷従のために使うものは現れる。それを自分の心の安定に使おうとするなら、本当は心から信じていないことを認めることになる。それでも、信じる側に立つのか、それとも信じることを放棄するか、その判断は人間に任されているのである。 タグ キリスト教 新生活193週目 - 「過越の食事をする」 の続きを見る
新生活192週目 - 「弟子たちを派遣する」 この箇所を読み直していて、「イエスが指示しておかれた山」は山上の垂訓の丘だったのではないかと妄想した。 タグ キリスト教 新生活192週目 - 「弟子たちを派遣する」 の続きを見る
砧教会正常化の道は遠い 先週、公開書簡で役員会に以下の請願を提出したが、今日の金井美彦による役員会議事報告で、審議された報告すらなかったので、起立して説明を求めた。 タグ キリスト教 砧教会正常化の道は遠い の続きを見る
新生活190週目 - 「弟子たちを派遣する〜天に上げられる」 絵画は、もしその時代にそこにいたらこんな景色を見られたかも知れないというイメージを与えてくれる。同時に、理性的に考えればありえないのは明らかだ。一方、そのありえないことを告白した人に理性を超える体験はあっただろう。個々人としては、信じることにしたがって、良いと思うことを誠実に成していく以外の道はない。 タグ キリスト教 新生活190週目 - 「弟子たちを派遣する〜天に上げられる」 の続きを見る
新生活189週目 - 「続:イエスはまことのぶどうの木」 「わたしがあなたがたを任命した」は権威付けの意味をもつ。ペトロは、外国人からもそれが真実だと信じられたら嬉しかっただろう。ますますきちんとしなければならないと思ったはずだ。ただ、序列化、権威化は進んでしまい、それが人に結びついていく。ヨハネ伝の記述には分断の種も仕込まれていると感じる タグ キリスト教 新生活189週目 - 「続:イエスはまことのぶどうの木」 の続きを見る
新生活188週目 - 「イエスはまことのぶどうの木」 「わたしにつながっていなさい」というワードでGoogle検索すると、説教記事が無数に出てくる。とても印象的だが、恐らく史実に基づく伝承ではなく、ヨハネ伝編集者の創作だろう。イエスはこのような意味の発言を行ったかも知れないが、教団強化の視点が透けて見える。 タグ キリスト教 新生活188週目 - 「イエスはまことのぶどうの木」 の続きを見る
新生活187週目 - 「イエスは良い羊飼い」 イエス様は私を守ってくださるという信仰は単純で力強い。この箇所は信仰告白を促す力強さがある。 タグ キリスト教 新生活187週目 - 「イエスは良い羊飼い」 の続きを見る
新生活186週目 - 「弟子たちに現れる」 自分に働きかけるイエスが本物かどうかは、聖書に当たる他無いし、聖書のテキストにも相互矛盾があって安易に信じることはできない。その上で、多数の先達が福音を述べ伝えてきて今もキリスト教は生き残っている。とても不思議なことだ。 タグ キリスト教 新生活186週目 - 「弟子たちに現れる」 の続きを見る