2024年のクリスマス礼拝は、根津教会で守らせていただいた。これで、個人として一年の行事は終わりで、新たな年の計画の精査に入るとともに、過ぎようとしている1年を振り返ることになる。
振り返れば、今年の最大のイベントは、砧教会から事実上追放されたことにある(砧教会が新たな組織決定をした)。この翌週から根津教会の礼拝に(宣言しているわけではないが)寄留の民として参加させていただいている。谷根千に越してきた時に、近場の教会のほうが良いのではないかと思って何度か通ったが、時間をかけても砧教会に通うほうが良いと思うようになったことを思い出す。当時の牧師は亡くなっており、その後着任した宣教師が先週按手式を終え、正教師・牧師となった。私にとって、彼女の説教は受け入れやすいものだ。
クリスマス礼拝の説教で、エレミヤ書29章を取り上げたのは、なかなか意表をついたものだった。エレミヤ書の講解は砧教会で金井美彦氏が行っていたのを覚えているが、暗く深みが感じられなかったこともあり印象が良くなかった。それは私の置かれていた状況が影響していたのは否定できない。今日の説教では、神の計画の長期性を素直に受け入れられるもので、4年やそこらの時間軸でものを考える愚かさを反省させられた。時は傷を癒す効果があるが、腐敗が進んでしまう効果もある。信じて待つという姿勢は忘れてはいけないのである。
砧教会は真実を向き合うことを組織的に放棄したので、もはや自らの死刑宣告に署名したも同じである。そこに真実があれば、蒸し返さないなどと言って逃げる必要など無い。本人たちは組織防衛のつもりかも知れないが、社会の公器であることを放棄したことにほかならない。自滅の道を選ぶのは自由だが、真に哀れである。金井美彦は終末の日に責任を負うことになるだろうが、裁くのは私ではなく「王であるキリスト」だろう。独裁者の末路は哀れである。もちろん、教会を私物化した佐分利正彦もそれを支持した役員も同じ穴の狢だ。悔い改めて真実の道に戻ることに期待する。過去の事実は変えられないが、未来は変えられる。いつか、共に歩む日が来ることを信じて何年でも待つことにする。これも神の計画の一部なのだろう。
今年は、原因不明の高熱でファストドクターを呼んだとは言え、概ね健康には恵まれた年だった。今日現在で、歩行距離も3,660kmを超えている。プールにも通えたし、久しぶりに年間100kmを超えた。とは言え、好事魔多しという言葉もあるので、引き締めて考えるのが良いだろう。年頭は1日7km歩行に落としたほうが良いと考えていたのだが、やりすぎた年だったと総括する方が適切かもしれない。もう若くはないと感じることは少なくないのだから、頑張ればよいということではない。
年明けには65歳になる。介護保険も新たに徴収されることになる。また、被保険者ともなるわけだ。
仮に人生100年とすれば、まもなく2/3を迎えることになる。新年に期待している。