新生活227週目 - 「ガリラヤで伝道を始める~ナザレで受け入れられない」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第3主日(2025/01/26 ルカ1章1-4節,4章14-21節)」。3年前の記事がある。冒頭部はともかく、ルカ伝4章14‐21節の並行箇所はマタイ伝4章12-17と13章53-58、マルコ伝1章14-15と6章1-6。3年前の冒頭画像でTriple Traditionにあたる2つの記事である。

福音朗読 ルカ1・1-4、4・14-21

1・1‐2わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。3そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。4お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
 4・14〔さて、〕イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
 16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
 18「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、
 19主の恵みの年を告げるためである。」
 20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


まず、ルカ4:14の並行箇所を見てみる。

マタイ4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
マルコ1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

ガリラヤに移ったのは同じだが、マタイ、マルコではその原因は洗礼者ヨハネが捕らえられたことを起点としているのに対して、ルカ伝では原因には触れず、霊(πνεῦμα (pneuma))という言葉が使われている。この言葉は、新約聖書で383回と頻出する言葉だ。ルカ伝は使徒行伝と対と考えられているから、初期のキリスト教の発展のコンテキストで編集したのではないかと考えることができる。使徒行伝のサウロの回心のところでは、以下のように書かれている。

9:15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、9:19 食事をして元気を取り戻した。


17節の聖霊という言葉は同じ単語である。事件ではなく霊がイエスをガリラヤに送ったと意味づけしているのだろう。同時に、同じ言葉を使って、アナニアの洗礼を経てパウロに聖霊が降った記事が書かれている。構造的には、神に認定された洗礼者の洗礼を受け、聖霊が降って神と人との直接的な関係が確立する。そして、その後はその直接的なチャネルを通じて、与えられた働きを行うこととなり、それは大きな変化を社会にもたらすという構造となっているように読める。権威を得たい教会には都合の良い構造だ。

パウロの回心とその後の行動は不可解で、なにか特別なことが起きたとしか考え難い。その働きは聖霊によると考えるのは信仰者の自然だろう(私は聖霊の働きだと考えている)。それを踏まえてルカ4:14のガリラヤ行は、霊の命令によるという解釈だと思う。

マタイ伝では、洗礼者ヨハネの逮捕でヨハネ教団が危機に陥ったので、その地を離れたと読めるし、マルコ伝は脅威を感じたかどうかはわからないが、イエスはヨハネ教団の時期は終わって、イエスがヨハネ教団から独立して直接リーダーシップを取る時期を迎えたと読める。Triple Traditionで、ガリラヤで福音宣教を始めたという事実が一致していたとしても、解釈はそれぞれのように読める。

16節のナザレでの説教に関しては、マタイ伝13:54にマルコ伝6:2に同じ事実が記載されているが、どの聖書箇所を利用したかは書かれていない。ルカ伝の編者は、霊がイエスに命じて説教を行わせ、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」と言わせたと言いたいのだろう。

福音のヒント(3)以降に4:18以下の内容が解説されていて、納得感はあるが、本当に史実があったかは怪しい。あるいは、多くの場所で同じ説教を行っていた記録かもしれない。しかし、霊はイエスとともにあり、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」は意味的には筋が通っていると思う。今日の聖書箇所では取り上げられていないが、この後、その説教がナザレの人々に受け入れられなかったと書かれている。イエスという人間の出自を知っている人々だからイエスに神の霊が留まっているという事実を受け入れられなかったのだろう。人を評価するか、行いを評価するか問われるとも言える。

シナゴーグでの説教が許されるということは、十分な信用が得られているということで、イエスの説教の価値が認められていたということだろう。ルカ伝の編集者は、それは霊がイエスとともにあったからだと解釈していて象徴的な説教の中心部をナザレでの説教に込めたのではないかと思う。

私には、このナザレでの話がパウロの回心を想起させるのである。

サウロのキリスト教への迫害という過去を知っていれば、当然パウロという人間を受け入れることはできないが、回心後の彼の行動と言葉を通じて、聖霊が彼と共にあると信じた時、その人にとってはパウロの過去あるいは出自は問題ではなくなる。それでも彼の迫害で実害を受けた人や、その近しい人はパウロを受け入れることは困難だっただろう。距離が遠い人だから受け入れやすいという側面は否定できない。恐らく、信仰者の中にも強烈なアンチパウロ派は存在しただろう。しかし、聖霊は彼とともにあったと考えざるを得ない。霊は共にあったが、パウロという人間を通じて発せられる行為にはパウロという触媒の限界が現れると考えるしか無いように感じられる。

ナザレの人々の後日はどうだったのだろうか。人間イエスというコンテキストで「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」を聞き取れなかったのは残念だが、心に残ってやがて変化に至った人はいたのではないか。

ブレずに真実に迫れる人は幸せだと思う。

※画像は、Wikimediaにあるナザレにある聖ヨセフ教会。キリスト教が勢力を拡大するにつれて、ナザレの街は聖地として訪問者が増えた。イエスの時代には恐らく400名ほどの街だったが、やがてナザレの人々はイエスを強く意識するようになっただろう。商売として利用した人もいるだろうし、改めてイエスが何者だったかが話題になったはずだ。後になって気付かされることがあるのは珍しいことではないが、一世代以上の時間的距離が開けば評価が変わるだろう。