新生活225週目 - 「イエス、洗礼を受ける」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「主の洗礼 (2025/1/12 ルカ3章15-16,21-22節)」。3年前の記事がある。21節からの並行箇所はマタイ伝3:13-17、マルコ伝1:9-11。ヨハネ伝1:29-34(神の小羊)にも記述があるが、洗礼者ヨハネの証言となっている。

福音朗読 ルカ3・15-16、21-22

 15〔そのとき、〕民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
 21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」はマタイ伝では「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」となっている。マタイ伝はやや長いのと、声がイエスに向けたものではなく、そこにいた人に向かっていたのが分かる。精霊が降った記述は良く似ている。福音のヒント(2)では「 (A)天が開け、(B)聖霊がイエスに降(くだ)り、(C)「わたしの愛する子」という声が聞こえた。」を重視している。シーンを想像するしか無いが、普通では考えられないことが起きたと考えるしか無い。まあ、そういうこともあったのだろうなと思ってきたが、改めて読み直すと、ここから公生涯が始まったと起点にすることを決めただけなのではないかと思わないでもない。共観福音書では、このあとに荒れ野の誘惑の記事が続く。自然に読めば、ガリラヤでの伝道開始の前に、洗礼を受けて、精霊が降って、荒れ野の誘惑を乗り越えたというエピソードがあったという背景説明だと取れる。マルコ伝は1章だが、マタイ伝、ルカ伝は3章で背景説明はさらに誕生まで遡る形になっている。読者、信者が知りたいと思うのは当然で、そのニーズに応えたと考えないわけにはいかない。調べを進めれば、恐らく不都合な事実も見つかっただろうが、歴史は調整されているだろう。外典、偽典では様々な伝承が書かれていて、創作記事もあれば調査研究によって明らかになった事実も含まれているに違いない。

しかし、この道が正しい道かどうかを見極める段階にいる未信者にとっては、正統性に関する情報は重要である。かなり幼い人であっても約束を破られた経験はあるから、真贋を見抜く重要性は理解しているし、親もそれを見分ける訓練をする。主要指標はどの程度多くの人が言っているかであるのは明らかだが、権力者ががどう言っているかというのも判断に影響するが、多くの人が言っているし証拠があるとされているが、実は真実は違うという密かな声が力を持つこともある。まがい物の真実を信じてしまえば、いずれ破綻してしまうのだが、破綻に至るまでは夢見ることができる。死後の世界の存在を前提にする宗教には殉教がつきもので、この世の成功や失敗だけで終わらないから、死さえ美化されてしまう。扇動者は搾取し、神国は人の命を喰らう。扇動者、為政者も本心から非合理な道を信じていることがある。

個々人としては、この世でも成功したいし、あの世でも成功したい。まあ他人がどう考えているかはわからないが、自分の思い通りになればよいと願わない人はいないだろう。

一神教の神は全権を持っているので神の御心にかなわなければこの世でもあの世でも成功できない。神の御心はこうであるというメッセージを伝える預言者に従うことが求められる。言ってみれば、神の顔をうかがいながら、へつらいながら生きることが必要になり、正しいことと正しくないことを二元論的に識別する方向に向かう。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉を信じるということは、イエスを神の代理人と認めることになる。この箇所から(A)父(B)聖霊(C)子の関係性が成立する。個人的には聖霊が重要だと考えていて、イエスという個体に聖霊が降ったということで、イエス向けの神との(1対1の)通信路が確立したというところにある。後のイエスの発言に聖霊を送るという話がある。復活して神と一体化したイエスが聖霊を人に送って知恵を与えるということと取れる。普遍的な正義ではなく、個別化された正義が確立されるととっても良いだろう。

洗礼を受けるということは、洗礼を授けるものを預言者同等の存在として認め、その人を通して神の道を知り、その道を選ぶことを宣言し、またその人の認証を受けるということだ。しかし、聖霊が直接降れば、もうその預言者、洗礼者の使命は終わる。

プロテスタント教会の祝祷では神の愛、子の恵み、聖霊の交わりが祈られる。洗礼の結果、通信路が確立したとしてもそれを活かすことができなければ善く生きることはできないと解釈できる。

今日の記事の通りの事実があったかどうかはわからない。常識的にはありえない話だ。

しかし、意味的な解釈は可能である。自らの意思でその道を選択(信仰告白)し、洗礼者によって洗礼を受け、(三位一体の)神がメッセージを降す。そのメッセージを信じて、己に与えられた道を歩むのが信仰生活の本質といって良いだろう。それに従うことでこの世での成功が約束されるわけではないが、意味のある人生を送ることはできる。そして、(三位一体の)神の子に見捨てられることはないと信じるということでもある。現実は厳しい、良かれと思って、進むべき道だと思って選択したことがうまく行かないことなど無数にある。うまく行かないときは、よく理由を探すのは当然だが、それはそれとして次の選択もしなければ前に進むことはできない。一見、現実に合わないと感じられることであっても、必ず道が拓けると信じ続けることを信仰と呼んでも良いだろう。洗礼後も荒れ野の誘惑は来るのだ。誘惑に惑わされずに道を探し続けること約束するのが信仰告白と考えることもできる。

今日の箇所では、その当時「民衆はメシアを待ち望んで」いたことが書かれている。誰かが来て救ってくれるのを待ち望んでいたということだ。しかし、到来したメシアは民衆の国を作って他国とはレベルの違う豊かで住みやすい国を作ってくれたわけではなかった。そうではなく、自らが立ち上がって自由を求めよと説いた。ただし、自分を愛するように隣人を愛せという制約がついている。つまり他国とはレベルの違う特権的な身分を望む排他的な国の成立は否定されたのである。

教会は、人間の組織でもあるので内側と外側を分ける必要がある。国と変わらない。だから改宗を求めたり、納税を強要したりする。もし、教会が腐ったなら、自らが立ち上がって自分の道を歩けばよいのだ。しかし一人でできることは一人でできることでしかない。組織的なつながりが必要なことはあるだろう。同じ信仰を告白している他の集団の寄留者として歩むという選択はありだと思っている。

時代的には全体的な幸福の増大期は終わって、格差の拡大による富者への富の集中と貧者の増大が進んでいる。排他的になりやすく、ナショナリズムの誘惑にさらされている。しかし、もし今後が縮退期となるとしても愛を起点とした判断をすることが必要だ。地球環境を含む公共財へのリソース投入を増やすのが望ましいのではないかと私は考えている。もちろん、自分が生きていけないようでは困るから、稼ぐ努力を止めるわけにはいかない。それぞれの人にそれぞれのメッセージが与えられるから、良く聞き取って、真実の道を歩くのが善い。

※画像は、Dove of the Holy Spiritのステンドグラス。Wikipediaの聖霊経由でWikimedia CommonsのFile:Rom, Vatikan, Basilika St. Peter, Die Taube des Heiligen Geistes (Cathedra Petri, Bernini).jpgから引用させていただいた。