新生活68週目 - 「イエス、洗礼を受ける」

hagi2022/01/09(日) - 08:54 に投稿
ミンスクの教会(2019年11月17日)

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「主の洗礼 (2022/1/9 ルカ3章15-16,21-22節)」。

降誕節の最後の主日となるらしい。福音のヒントの最初にあるように「イエスが誕生してから30年もたった後の出来事」で降誕節が終わる。マルコ伝では1章。ここからイエス伝が始まっている。イエスが人間として生きて死んだ以上、親がいて、言葉を話すこともできず人の助けがなければ生きていけなかった幼児期があるから、自然とその頃はどうだったのだろうという疑問は湧く。ルカ伝が報告書と考えると、触れないわけにはいかない。自然と親はどんな人物だったのかも問われるだろう。父ヨセフの記述が多くないのは示唆に富む。

福音朗読 ルカ3・15-16、21-22

 15〔そのとき、〕民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
 21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

今の私は21節からの「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」は、誰にでも起こり得ることだ。たまたまあの人間イエスに起きたことではないかと私は考えている。誰の子であるかとか、性交を伴わない出産だったか否かは関係なく、この時、神の声が降りてきて人間イエスに宿り、人間イエスは自分が神と世をつなぐ使命を与えられたと自覚したのではないかと考えている。

恐らくすべてのクリスチャンは洗礼を受ける瞬間に同じ体験をしているのではないかと思う。自分の意志で信仰を告白し洗礼を受けることで、自分は神と世をつなぐ者に変わった、あるいは変えられたと感じる。もちろん、精霊が鳩のように目に見える姿で降っては来ないし、周囲の人が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を耳にすることもない。ただ、自分の意志で告白するのだが、どうして告白する気持ちになったかはわからない。信者はそれを恵みと捉える。「あなたはわたしとつながって良い者」という声が聞こえたことに等しい。非科学的で、奇跡的な体験である。

マルコ伝の並行箇所では「1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」となっている。原語はわからないが、「御覧になった」という言葉の主語はイエスだろうし、天から聞こえたと言明したのもイエスだろう。後にイエスが、側近に向かって自分の活動の原点について語った内容を収録したと考えたほうがスッキリ来る。イエスはしるしは得られないと言っているが、イエスは「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを見て神の声を聞いた」という体験を告白し、表現はともかく、それを君たちが信じるかどうかは君たち次第だが、少なくともそれは私にとっての現実であると表明したのだと考えている。逆に言えば、イエスにとっては、それが全てであり、それ以前のことは信仰的には意味のないことに変わったのではないかと思う。福音のヒント(3)で並行箇所の比較については簡潔にまとめられている。

復活のイエスに出会ったというのも基本は個人的な体験だ。現代の信仰告白も「復活のイエスが今も働き続けていることを感じた」という告白であり、自分がその存在に影響を受けてイエスと世をつなぐ使命を有することを自覚したという表明にほかならない。

個人的な経験に根ざして語れば、教会学校の同年齢の友人が受洗した時に、彼には(私とは違う)何かが起きたと思ったし、自分が受洗した後に同年代の知人が受洗した瞬間には、彼、彼女に私と同じ奇跡が起きたと感じた。神はとらえどころがないが、イエスは生きていたときには人間だった。イエスが神とこの世をつなぐ存在として生き、そのイエスを通じて自分が神と結びついたことに感謝し、同時にイエスを介して神と結びついていることを自覚することで重い責任を負うことになる。ある日、十字架の死が自分にも起こり得ることに気づく。来るときには来てしまうし、イエスを十字架につける側に立つリスクに常に晒されていることにも気づく。

マルコ伝では「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」という記事から始まる。位置づけは明快で準備をするのが彼の使命だ。自分は直接神と人とをつなぐものではないが、まもなくつなぐものが現れるのでそのための露払いを行っている。そういう活動をしていたら、イエスが来て洗礼を受けていったという筋書きである。

福音のヒント(2)は「ルカ福音書の特徴は「祈っておられると」これらのことが起こったということです」と書いている。洗礼は洗礼者ヨハネによって司式されたが、本質は神とイエスとの関係の変化にあるわけで、イエスが祈る相手は神であってヨハネではない。ヨハネは洗礼を施すことによってその人の心を神と向かい合う準備ができている状態にするのが役割なのだろう。儀式は心の動きに影響を与える。ただ何が本物かは誰にもわからない。この時、人間イエスは神が自分と直接つながっていることを知ったことになる。すぐには全てが変わるわけではない。少なくとも腹落ちする前に40日の荒野の誘惑の時期を過ごしている。祈りは自問でもある。自問する時は情報を集めできるだけ正しく判断しようとする。イエスには常に神の声は降ったのだろうか、それともただ一度「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉が降ったのだろうか。

福音のヒント(5)で「イエスのヨルダン川での洗礼→わたしたちの洗礼」と「ヨルダン川→ペンテコステ→堅信の秘跡」という2つの構造に言及している。聖霊が降るということはどういうことか。洗礼を受けて30余年。私には、自分にペンテコステのように聖霊が降る瞬間は無かったと今は考えている。「御国を来たらせたまえ」という祈りが対応するのかもしれないが、それは現実世界では十字架への道を意味するのだろう。いつ何が起きるかは、その時が来るまでわからない。

※写真は2019年11月のミンスクの教会。教会の前で真剣に祈っているように見える人を何人も見た。何らかの悲しみを抱えて何かを祈っているのだろうと思った。貧しさや自然の厳しさを感じる街では、祈る人を数多く見る気がする。豊かであっても、悩みがなくなることはないが、まずは生存権の確立が必要だろう。洗礼者ヨハネのもとに行った人たちは何を求めていたのだろうか。