キリスト教
なぜ人は自分が差別する人に堕ちていることに気が付けないのか
私は、佐分利氏にも金井氏にも悪意はないと思っているが、やっているのは悪魔の所業である。
新生活182週目 - 「ギリシア人、イエスに会いに来る~人の子は上げられる」
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共観福音書は基本的に同時代の人間から見た史実の記述であるのに対し、ヨハネ伝は意味から再編集した(教会運営に資する形で改ざんされた)正史のようなものだと考えて良いと思う。ある正統を主張する派閥の解釈として読めば良い。
新生活181週目 - 「イエスとニコデモ(後半)」
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ヨハネ伝だけに出てくるニコデモという話は、ここだけでなく3箇所全部を読んで像を結ぶようになる。実在の人物かはわからない。私はどちらかといえば懐疑的だが、ニコデモのような人は存在しただろう。ヨハネ伝は理性の外側にあることを理性的に書けると思わせるような危うさがあり、最近はどうも素直に受け取ることができないでいる。
新生活180週目 - 「神殿から商人を追い出す~イエスは人間の心を知っておられる」
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体制、立場はしばしば人を誤らせる。勝手に神殿の境内で商売できるわけがなく、誰かが許可を出していたはずだ。その商売で動く金が神殿の維持に使われていただろう。同時に、神殿に関わるものの原資にもなっていただろう。体制が守られなければ生活水準は維持できない。本来あるべき姿に気づくことは易しくないが、中には沼から出られた人もいるだろう。スーパースターに従う人も実は沼にいるだけなのに気づけたほうが良い。
新生活179週目 - 「イエスの姿が変わる」
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カトリックは様々な文書が整備、制定されていて信者を増やしカルト化を防ぐ努力が蓄積されている。過去の過ちの修正の歴史とも言えるだろう。信仰と理性は両立させなければいけない。個人的には秘跡として理性の領域から外していくことに抵抗はあるが、理性だけでは自分の倫理観も確立できない。
新生活178週目 - 「誘惑を受ける~ガリラヤで伝道を始める」
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マルコ伝の荒れ野の誘惑は短い。何があったかは想像するしか無いが、前後でイエスに変化が生じ、誰にも、洗礼者ヨハネにも依存することのない自由人としての活動を始めた箇所だと考えている。
新生活177週目 - 「重い皮膚病を患っている人をいやす」
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「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」はBSBでもNIVでも“If You are willing, You can make me clean.”である。「御心ならば」と“If You are willing"の意味は遠くないだろうが、印象が大きく違う。全体として主体的でやや失礼な感じがある。それが好ましいようにも感じられる。
新生活176週目 - 「多くの病人をいやす〜巡回して宣教する」
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どの人も、日々、良く景色を見ながら、できることをやれば良い。できれば、日和らずに正しいと思われることをやるのが良い。徒党を組んだり、誰かに依存するような生き方は避けつつ、新たな挑戦をしたら良い。
新生活175週目 - 「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」
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本当はありもしない律法学者の権威を笑い飛ばし、平等に真実に向かい合えというイエスの解釈のインパクトは大きかっただろう。権威に溺れてはいけない。