新生活221週目 - 「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる(中盤)」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「待降節第3主日 (2024/12/15 ルカ3章10-18節)」。3年前の記事がある。砧教会が自分の帰る家でなくなってしまってから5回目のクリスマスを迎えようとしている。全体の約1割の期間となる。

 

福音朗読 ルカ3・10-18

 10〔そのとき、群衆はヨハネに、〕「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。11ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。12徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。13ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。14兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。 15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 18ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。


今回、福音のヒント(2)を見ていて、以下の部分が目についた。

彼らに対してヨハネが語ったのも、ただ、人に対して悪を行なわないようにということでした。ヨハネは徴税人や兵士に向かって、その仕事を辞めることを要求しません。「悔い改めにふさわしい実」として必要なことは、自分の置かれた場で神の心にかなう生き方をすることでした。


イエスも職業については限定的ではなかったと思う。日本でも職業に貴賎なしという言葉があるが、現実社会には様々な社会的なニーズがあり、中には立場の弱い人が生きていくために望まない職についているケースもある。借金の奴隷になるケースもある。イエスの生きていた時代にも、旧約の時代にもそういう現実はあった。兵士の中には、進んでなった者もいただろうが、何らかの理由で強制的に徴兵された者もいた。特にローマは多民族が関わる国家であり自由意志に反する命令もあったに違いない。

人生はままならないものだ。努力してなんとかなることも無くはないが、どうにもならないこともある。

今回の秋ツアーで、同年代のエストニアの人たちとかなり長く話す時間があった。彼らは、20代の頃はソビエト連邦に属する共和国の人だった。実体験が無いものにはわかり得ないことではあるが、強い力による支配には抗うことができないと同時に、今とは異なる社会システムによる恩恵もある。住環境が与えられ、職も与えられ、自由を放棄すれば一定の生活が保証されることになる。再独立時には大きな混乱もあった。中には、兵役にとられた友人の話をする人もいた。今ロシアでは少なくない人たちが徴兵され戦地に送られ、中には命を落とす人もいる。ついロシア人は、とか、ソ連は恐ろしいと考えてしまうが、かつてソ連兵だったエストニアの人が、今のエストニアで生きていて、自由意志に基づく行動ができるようになっている。40年前に洗礼者ヨハネが現れて、ソ連兵を前に兵士を辞めろと言っても彼らには自由があるわけではない。「自分の置かれた場で神の心にかなう生き方をする」と言われても、できることは大きくない。中には、自分の命をかけて自由を求めた人もいるし、それ故に命を落とした人もいる。一方、エストニアにもソ連の官僚はいたわけで、彼らはソ連という社会システムが崩壊すればその存在価値が失われる。実際、再独立時に職を失った人も多いし、国有施設の売り抜けで財をなそうとした人もいる。言ってみれば、現在の徴税人で、ソ連という社会システムに支えられて超過利益を得ていた人で、その人の能力や努力だけで利益を得られていたわけではない。今の日本人の生活も決して個人個人の実力だけで得られているものではない。その種の富める者に「自分の置かれた場で神の心にかなう生き方をする」というメッセージはどう響いただろうか。メッセージの届き方は人によって異なるから受け止め方も人それぞれだったに違いない。

勝ち馬に乗れば、自分の実力より大きな力が行使できる。そして、それが自分の力、あるいは努力の結果だと誤解してしまう。

現実的な課題としては、民主主義体制であれば、個々が良質な社会システムをどう作り上げていく責任を担うかということになる。EU市民権のように流動性が保証されていれば、好ましい国に引っ越すという選択肢もある。しかし、どのような状況であれ「自分の置かれた場で神の心にかなう生き方をする」というメッセージは心に留めておくべきだろう。職場であろうと、個人の付き合いであろうと、教会生活であろうと、それは変わらない。

洗礼者ヨハネは「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」とやがて来るメシアの姿を語っている。因果応報の世界観で、神は自分の置かれた場で神の心にかなう生き方をしているかどうかつぶさに見ているので、できなかったら激しい処罰が待っているという脅迫的なメッセージだ。わかりやすいが、そこに立っている限り、誰も救われることはない。完全でいることはできないからだ。

愛は、自己中心ではあり得ない。「自分の置かれた場で神の心にかなう生き方をする」というメッセージは力を失うことはないが、それだけではまだ自分が救われるためにはという打算が消えることはない。そこを超えてイエスは来た。彼は、愛が権力や死をも凌駕することを示した。権力への依存で何か良いと思うことをなすことが悪いとは思わないが、一歩間違えれば権力に飲み込まれてしまう。もし取り込まれてしまったら、そこで自分の置かれた場で神の心にかなう生き方をするしかないだろう。愛を失わないことだけは心しなければいけない。

いよいよ、生誕を記念するクリスマスという日を迎える。

※画像は洗礼者ヨハネの洗礼の場所と推定される場所(アル=マグタス)。Wkipedia経由でWikimedia CommonsのThe supposed location where John baptized Jesus Christ East of the River Jordan.から引用させていただいたもの。自分はこのままで良いのだろうかと思い悩む人が集まった場所なのだろう。私は、イエスもその時点ではその中の一人に過ぎなかったのではないかと考えている。その前も只者ではなかったようだが、迷いは深かったと考えている。