キリスト教

新生活179週目 - 「イエスの姿が変わる」

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The Franciscan Church of the Transfiguration on Mount Tabor in Israel
カトリックは様々な文書が整備、制定されていて信者を増やしカルト化を防ぐ努力が蓄積されている。過去の過ちの修正の歴史とも言えるだろう。信仰と理性は両立させなければいけない。個人的には秘跡として理性の領域から外していくことに抵抗はあるが、理性だけでは自分の倫理観も確立できない。

新生活178週目 - 「誘惑を受ける~ガリラヤで伝道を始める」

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Dir El Qaratal - Monastery of the Temptation's, Cliffs of Doq (Dagon), Jericho
マルコ伝の荒れ野の誘惑は短い。何があったかは想像するしか無いが、前後でイエスに変化が生じ、誰にも、洗礼者ヨハネにも依存することのない自由人としての活動を始めた箇所だと考えている。

新生活177週目 - 「重い皮膚病を患っている人をいやす」

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「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」はBSBでもNIVでも“If You are willing, You can make me clean.”である。「御心ならば」と“If You are willing"の意味は遠くないだろうが、印象が大きく違う。全体として主体的でやや失礼な感じがある。それが好ましいようにも感じられる。

新生活176週目 - 「多くの病人をいやす〜巡回して宣教する」

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Ivan Kramskoi: Christ in the Wilderness
どの人も、日々、良く景色を見ながら、できることをやれば良い。できれば、日和らずに正しいと思われることをやるのが良い。徒党を組んだり、誰かに依存するような生き方は避けつつ、新たな挑戦をしたら良い。

新生活174週目 - 「ガリラヤで伝道を始める~四人の漁師を弟子にする」

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Domenico Ghirlandaio: Calling of the First Apostles
「四人の漁師を弟子にする」はマルコ伝版の「最初の弟子たち」だ。既にイエスに注目し、期待を寄せていた人はいただろうとは思うが、世の片隅で起きた小さな出来事だったのではないかと思う。

新生活173週目 - 「最初の弟子たち」

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James Tissot: The Calling of Saint Peter and Saint Andrew
「見よ、神の小羊だ」という信仰告白は、その告白者の人となりや行動により周囲の人に影響を与えていく。私の信仰告白は、周囲の人から見ると彼の信仰告白であり、私の生き様と併せて評価、解釈される。人を躓かせる原因にもなるから恐ろしいことだ。ヨハネ伝に従えば、ヨハネの信仰告白は現在の教会の起点となることになる。ヨハネも恐らく人を躓かせる原因にもなっただろうが、それを越えて福音は広がっていった。信仰告白が起点であっても、その後に霊が働くと考えるのが適切だろう。

ヨハネ伝15章

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教会につながっているということが「イエスというぶどうの木につながっている」ということなのかという問いにもなるのだが、やはり「もっと根本的な生き方の問題」と捉えるのが適切なのだろう。