キリスト教
新生活261週目 - 「不正な管理人」のたとえ
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誰でも、管理人の役割、誰かの富の一部の運用を任せられることはあるだろう。その結果、自分の富も増える(報酬がもらえる)が、突然その仕事が取り上げられることもある。その時、残っている時間で何ができるかを考えることになるが、自分だったらどうするだろうかと考えて見るのも面白い。
新生活260週目 - 「見失った羊」のたとえ〜「無くした銀貨」のたとえ〜「放蕩息子」のたとえ
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たとえ話は3つあるが、どれも失われたものが戻ってきた話で、神の民が道を外れししまっても戻ることができれば神は喜ばれるというテーマと捉えることができるだろう。信仰から外れたらそれで終わりということではない
わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない(マタ12:7)
訳を検討することで得られることは少なくない。この憐れみという言葉はホセア書の新共同訳では愛という言葉になっていて、その言葉は英語では新約でmercy, compassion、旧約でmercy, loyaltyと訳されている。とても興味深い
新生活258週目 - 「客と招待する者への教訓」
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謙虚な有力者をイメージするのは難しい。神を最高権力者とする宗教は神の裁きが待つ。教訓として「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」はわかりやすいが、本当にイエスはこの通りの発言をしたのだろうか。
新生活257週目 - 「狭い戸口」
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実は広き門から入っても、そこここに狭き門が存在していて、途中から入れるケースはあるのではないかと思っている。必ずしも苦行が必要な訳では無い気がするが、必要なら苦行が与えられることもあるだろう。
新生活256週目 - 「分裂をもたらす」
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地上に火を投ずるというのは、ちがうことはちがうという声が広がっているという状況を意味するかもしれない。現代は王国(専制君主)の乱立時期に比べれば遥かにマシになっている。紆余曲折を経ながらも御国は近づいていると私は考えている。
コラジン、お前は不幸だ
牧師は「お前は不幸だ」は悲嘆を感じさせる感嘆詞をコラジンに付したと取れると言った
新生活255週目 - 「(天に宝を積みなさい)〜目を覚ましている僕」
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「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」は真実だと思う。地上に富を蓄えれば心はそこに引きずられる。蓄えはないと危ういが、あればあったで危うい。