新生活12週目 - 「洗礼者ヨハネの証し」 福音のヒントに「降誕節は『その闇の中にもうすでに輝いている、小さな、しかし確かな光』である幼子イエスを見つめる」と書かれていた。私は今は闇の中にいるが、少なくとも自分にとって幸いなことにイエスは復活し今も存在していると信じている。能力が足りなくて行動に至れなくても、愛に生きる道は示されている。心の支えである。 タグ キリスト教 新生活12週目 - 「洗礼者ヨハネの証し」 の続きを見る
コミュニティの維持は微妙なバランスの上に成り立っている コワーキングスペースの開放性と閉鎖性のバランスという秀逸な記事を読んだ。コワーキングスペースの話として、「外の人からすれば、家ぐらいまでの閉鎖性は、居心地がいいとは言えないでしょう」、「対して、開放性、これはある程度の空気に「ハリ」を生んでくれます」とまとめている。コミュニティをホストするスペースは存続は容易ではない。しかし、恐らく永遠に需要はなくならないだろう。 タグ ライフスタイル Coworking キリスト教 コミュニティの維持は微妙なバランスの上に成り立っている の続きを見る
新生活11週目 - 「神の子イエス・キリストの福音の初め」 マルコによる福音書第一章は今日の「神の子イエス・キリストの福音の初め」で続いて「イエス、洗礼を受ける」、「誘惑を受ける」、「ガリラヤで伝道を始める」、「四人の漁師を弟子にする」、「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」、「多くの病人をいやす」、「巡回して宣教する」、「重い皮膚病を患っている人をいやす」とてんこ盛りのイエス伝の導入部である。当時、どんな感じだったのだろうかと想像しながら、ネットで背景をさらって見た。 タグ キリスト教 新生活11週目 - 「神の子イエス・キリストの福音の初め」 の続きを見る
新生活10週目 - 「目を覚ましていなさい」 今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は待降節第1主日(2020/11/29 マルコ13章33-37節)。アドベントに入った。クリスマスも年の瀬も近づいた。過去の反省と未来の希望を考える時期である。今年は通うべき母教会を失ったということもあるが、世界的大流行期には集会の開催が公衆衛生上の反社会的行為だから、クリスマスに教会という物理的な場所に集まって礼拝を守るという行為はキリスト教倫理にそぐわないと考えている。 タグ キリスト教 新生活10週目 - 「目を覚ましていなさい」 の続きを見る
ウソは人の心を殺す 『小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明』の「あなた、ウソヲツイタネ?」という記事を読んだ。私は牧師のウソで自分の母教会を失った。無自覚でもウソは伝染して太って時には人を自殺に追い込むことすらある。国の権力者のウソは政権の崩壊や国の滅亡を導くこともある。ウソはバレたら一瞬でも早く精算したほうが良い。 タグ キリスト教 ライフスタイル ウソは人の心を殺す の続きを見る
新生活9週目 - 「王であるキリスト」 今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は、王であるキリスト(2020/11/22 マタイ25章31-46節) 。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」というメッセージは明確で因果律を説いている。私は、本当にイエスがこの通りの説教を行ったのか疑いを感じている。 タグ キリスト教 新生活9週目 - 「王であるキリスト」 の続きを見る
死に接する時に愛とはなにかと考えさせられる パウロは、「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」と書いている。いくら知識を得ても、奇跡的な実行力があったとしても、愛がなければ無に等しいと説く。 タグ キリスト教 死に接する時に愛とはなにかと考えさせられる の続きを見る
新生活8週目 - 「タラントンのたとえ」 今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は、年間第33主日(2020/11/15 マタイ25章14-30節) 。たくさんの才能を与えられた人が成功して、才能を活かせなかった人はその才能を取り上げられて成功者に与えてしまう弱肉強食的な印象をもつたとえ話だ。子供の時は、この箇所を読んで頑張ろうという気持ちになったが、今は何か違うと感じさせる箇所となっている。 タグ キリスト教 新生活8週目 - 「タラントンのたとえ」 の続きを見る
新生活7週目 - 「十人のおとめ」 今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は、年間第32主日 (2020/11/8 マタイ25章1-13節) 。「十人のおとめ」という表題はWikipediaでは「十人の処女たちのたとえ」という項目で紹介されている。聖書の箇所はとくに難しい感じはしない。今回は、その解釈についても再考したが、ユダヤ教の結婚式について調べたり、日の区切りについて調べたりと結構脱線した。世の中は、知らないことに満ちている。 タグ キリスト教 新生活7週目 - 「十人のおとめ」 の続きを見る
新生活6週目 - 「幸福なるかな、心の貧しき者」 今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は、諸聖人 (2020/11/1 マタイ5章1-12a節) 。自由学園では文語訳聖書を使っていたので、「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者」というリズムが心に残っている。単純に感動を誘うが、ルカの並行箇所も見比べて考え始めるとかなり難しい箇所だ。さらに、この説教はマルコによる福音書には出てこない。その意味も気になる。福音のヒントでは、最後にこの箇所の最初にでてくる「心の貧しい」という言葉に改めて触れている。ルカでは付されていない「心の」をなぜつけたのか考えると像を結び始める。 タグ キリスト教 新生活6週目 - 「幸福なるかな、心の貧しき者」 の続きを見る