キリスト教

新生活193週目 - 「過越の食事をする」

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Sacramental bread
つきつめて考えれば、やはり聖餐式も祝祷も単なる儀式でしかなくそれ自身は空虚なものだ。ありがたがるのはナンセンスだと思う。一方で、儀式があること、それを繰り返すことは心の状態に大きな影響を与える。それを専制と隷従のために使うものは現れる。それを自分の心の安定に使おうとするなら、本当は心から信じていないことを認めることになる。それでも、信じる側に立つのか、それとも信じることを放棄するか、その判断は人間に任されているのである。

新生活190週目 - 「弟子たちを派遣する〜天に上げられる」

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John Singleton Copley: The Ascension
絵画は、もしその時代にそこにいたらこんな景色を見られたかも知れないというイメージを与えてくれる。同時に、理性的に考えればありえないのは明らかだ。一方、そのありえないことを告白した人に理性を超える体験はあっただろう。個々人としては、信じることにしたがって、良いと思うことを誠実に成していく以外の道はない。

新生活189週目 - 「続:イエスはまことのぶどうの木」

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Trump supporters in front of the Capitol
「わたしがあなたがたを任命した」は権威付けの意味をもつ。ペトロは、外国人からもそれが真実だと信じられたら嬉しかっただろう。ますますきちんとしなければならないと思ったはずだ。ただ、序列化、権威化は進んでしまい、それが人に結びついていく。ヨハネ伝の記述には分断の種も仕込まれていると感じる

新生活188週目 - 「イエスはまことのぶどうの木」

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Leos Moskos: Christ the Vine
「わたしにつながっていなさい」というワードでGoogle検索すると、説教記事が無数に出てくる。とても印象的だが、恐らく史実に基づく伝承ではなく、ヨハネ伝編集者の創作だろう。イエスはこのような意味の発言を行ったかも知れないが、教団強化の視点が透けて見える。