悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす

今日の説教でマタイ伝8章の『悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす』が取り上げられていて、興味深かったのでメモ。

8:-1 悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす8:28 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。8:29 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」8:30 はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。8:31 そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。8:32 イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。8:33 豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。8:34 すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。


説教に対する私の理解は、悪霊がイエスを認識していて最初から勝てないと考えていた。イエスが憑いていた人を救うから、自分の居場所はそこには無くなるのは必定なので、人間以外の器への移動の許しを請い認められた。しかし、結局豚の群も死んでしまったので悪霊は滅びた。そして、その地では、憑かれた人の復帰より、経済的損失を重く扱い、イエスとの関わりを拒絶した。というものだ。イエスの勝利を強く印象付けるもので、まあそうかなと思う一方で、それだけでは終わらない感じがした。

一つは、悪霊は本当に滅んだのだろうかという点で、イメージとしては相当のダメージは受けただろうが、消え去ってはいないのではないか、あるいはその悪霊が強烈だったので、静かにしていた悪霊が次に表に出てくるだけなのではないだろうか、という思いがわいた。最後のその地方社会がイエスとの関わりを拒んだ点は説教者も言及していたが、自分に投影するとそれはそれで重いものだと感じるところがあった。

最近、N党立花の犠牲者と感じられる自殺者やひさんないじめ事件が多発している。報道の取材によると、いじめの加害者が自分は正義の側にいると本気で思っているか、正しいことかどうかなど関係ないと思っているケースが少なくないことがわかってきている。2つのポイントがあって、自分は自分が考えていることを表明しているだけでその影響には責任がないと考えてしまっているのだろう。被害者を見て目が覚める人もいるが、次から次へと加害者が現れてしまうのが現実である。いじめ加害者も扇動者の被害者と言うこともできるだろう。扇動者を厳罰に処せば止められると考える人もいるが、それが必要だったとしてもそれで止まることはない。行き着く先が米国でのトランプの選出や日本での安倍の選出だったりする。罰では、勝ち馬に乗ろうとする意識は止まらない。同時に、豚を飼って経済を成り立たせているのであれば、豚飼いのリーダーを無下にはできないし、豚飼いのリーダーは自分の権益を侵すものを許しがたいのも自然なことだ。

どうすれば、そういった利己的心理を止めて、不幸な人の最小化を目指すことができるのだろうか。

いじめに加担する人たちに善意がないわけではないが、愛は利己心になかなか勝てない。愛をもって見る現実認識と、利己的視点の現実認識は一致しないのである。

戦争犯罪人は止めないわけにはいかないが、一つ止めても次が出てくるだけだ。私は、許容可能な格差を小さくする方向に動くしかないと考えている。イエスが勝利するという表明は、イエスにつかないものを貶めることになるから、使うべきではないと考えている。愛と勝ち負けという価値基準は相容れないと思っている。一方で、勝ち負けは表現としてわかりやすいから、諸表明でも勝ち負けから自由になることはできない。まあ、そんなものなのだろう。

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