新生活242週目 - 「ユダヤ人、イエスを拒絶する」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「復活節第4主日 (2025/5/11 ヨハネ10章27-30節)」。並行箇所はない。3年前の記事がある。

 福音朗読 ヨハネ10・27-30

 〔そのとき、イエスは言われた。〕27「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30わたしと父とは一つである。」


 福音のヒント(1)では「聞き分ける」の原語ἀκούω (akouó)に触れている。430回の頻出語である。福音のヒント(2)では「知っている」(γινώσκω (ginóskó) 222回)に触れている。どの程度深読みするかは読み手によると思うが、私はそのまま読んで良いと思う。

この箇所で注目すべきなのは「30わたしと父とは一つである。」だろう。私は、これはヨハネ伝著者あるいは所属組織の解釈で、イエス自身は少なくとも生前はそういう話はしていないと思う。最近思うのだが、聖書日課の福音朗読で選ばれるヨハネ伝の箇所は印象的な場所が多いが、どうも扇動的な印象がある。2巡目に入ってからしばしば違和感を感じている。

先週は、コンクラーベが行われ、レオ14世が専任された。初代教皇はペトロ。聖書の記述からはイエスが指名したように取れる場所もあるが、史実は、もっとも代表者として支持を受けたのかも知れないと思う。純真で心のそこからイエスに心酔していたように感じられる人物だと考えている。ある意味では、パウロの対極にある。政治力は感じられず、やがてヤコブにとってかわられたようだ。

今回選出されたRobert Francis Prevost氏は、ルターや(遺伝学の)メンデルが所属したの聖アウグスチノ修道会に属する人で、金曜日のNHKでは、笹丘教会が引用されていた。自身は、数学・物理学の高校教師を勤めた経験があるから、日本的な言い方をすれば理系の人となる。Wikipediaでは行きすぎた男女平等主義(ジェンダーイデオロギー)に否定的という記述があるが、背景から考えると、男女がバイナリーでなく連続的であることを十分に理解しているだろう。あくまで個人的な解釈だが、その連続性を受け入れるためには早い地域で1〜2世代、遅い地域では相当な時間を要すると考えているのだと思う。平和を目指すなら、権力を持つものは自制しなければならない。自らの保身のために事実に基づく異論を弾圧するような行為は愚の骨頂である。そういうリーダーを選ぶと組織が腐ってしまう。カトリックもそういう間違いを何度も犯しながら、なんとか自浄作用を機能させてきた。とてもすごいことだ。

枢機卿に選出されるような人は、相当の知識を有していなければならないだろうから、聖書の矛盾点はもちろん、教義の危うさも熟知しているだろう。その上で、自分の行動を考える。中にはまがいものも含まれる。選んだ者に過度に依存せず、不断の改善を続けていくしかない。たくさんの危機に直面しながら、なんとか2000年生き残ってきた。2000年も生き残れば垢も蓄積する。また、蓄積されてきた解釈を書き換えようとすると様々な抵抗勢力が跋扈する。地動説は一つの事例だが、解釈の書き換えの多くは、カトリック組織の内部の、しかも極めて誠実な修道者から提案されてきた。少なくない人が、その解釈が一般化するまでに異端として裁かれてきた。そして、解釈が何度も変わってきても、なお、信仰そのものは継承されてきている。プロテスタントは、カトリックからは正当性が正式には認められていないが、新興勢力だからこその強み(自由)がある。同時に危うさもある。単純な対立の構造に陥らないように双方が慎重にならなければ犠牲者がでてしまう。

ひょっとすると、プロテスタント、特に福音派との関係修復が進むのではないかと期待している。一律に妊娠中絶を弾圧するような保守派的な暴走が抑制され愛に根ざした環境構築が進むことを期待している。

もう一つ最近の話題で印象に残るのは、ナイ・アーミテージの死去だ。教皇は本質的にソフトパワーの体現と言えるだろう。ソフトパワーは極少数の扇動者によって危機に瀕することがあるが、十分な忍耐を有する人達によってやがて危機から脱することができるだろう。暴力的に専制を倒すのではなく、もっと多くの現実に根ざした愛を揺るがせないことが大事だ。特に米欧の負け組、あるいは誇りが傷つけられた人たちに目を向ける必要があるだろう。何ができるのか考える必要がある。

画像はWikipedia経由で引用させていただいた新教皇のもの