新生活85週目 - 「ユダヤ人、イエスを拒絶する」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第4主日 (2022/5/8 ヨハネ10章27-30節)」。見出しは22節から42節までについているもの。この箇所に並行箇所はない。

福音朗読 ヨハネ10・27-30

 〔そのとき、イエスは言われた。〕27「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30わたしと父とは一つである。」

ヨハネ伝10章は、改めて読むと何か変な感じがする。共観福音書とどうもトーンが違う。どの部分もある種感動的なのだが、教団色を感じるのは私の思い込みだろうか。

先週、処女降誕が話題となった。その人は、処女降誕が信仰告白の障害となっていたが、ある日越えたと言っていた。その時、神ならおできになると信じたと言う。確信は神と人との直接的な体験である。福音のヒント(3)の『「神の声を聞く」というのは、単に言葉として聞くのではなく、その言葉を自分に向けて語られた神の呼びかけとして聞き、それに応えていくことです』に通じるものだろう。聖書を通して語られる声を他人事ではなく自分に向けられたものとして受け取るというのは、神と人との直接的な関係にほかならない。特に理解し難い言葉とどう向き合うかが問題となる。そして信者がその体験に立ち戻る時「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」。恐らく全てのキリスト教信者は一人ひとり違った形でそれぞれが自分の体験がある。困難に直面しても体験に立ち戻ることができれば自分の足元が揺らぐことはない。

私はこうした信仰体験は教会を介さずに起きると考えている。同時に教会という集団の重要性も痛感している。新生活85週と長い期間、共に歩むかつての友のいない状況はとてもつらいものだ。私は、やがて霧が晴れて共に歩む日が来ると信じているが、孤独は思考を蝕む。この先どれだけの時間を要するかはわからないが、既に自分の一部が壊れてきているのを感じる。しかし、私は自分が真実と信じている金井美彦氏らによる教会総会違反の事実指摘を取り下げることはできない。やがて司法による客観的判断が下るだろう。客観的判断で私の間違いに気がつければそれで良い。しかし、もし勝訴して正しさが明らかになってもそれでは終わらない可能性がある。真実を追求するのは止めないが、愛を失うことはどうしても避けたい。何にしても、問題が解決して共に前を向いて進む日を願っている。祈っている。

ペンテコステ前のこの時期は、教会の設立準備期間で外から見れば空白期間に当たる。

仮にヨハネ伝10章に教団の我田引水的な要素があったとしても、その意味することは重く受け止めるべきだと思う。私は、秘跡という考え方に抵抗感があるが、イエスの復活を告白している以上、科学的思考を既に放棄しているのだ。だから、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」は怪しく感じてもやはり響く。イエスに私は知られていると思っていて、私はイエスに従いたいのだ。そして、それが私のエネルギーとなっている。生きていく力なのだ。

※画像は、wikimediaから引用させていただいた使徒行伝のサウロの回心でアナニアがパウロの視力を回復させるシーンAnanias restoring the sight of st paul。今日の聖句の聞く「ἀκούω」は使徒行伝9:4の呼びかける声を「聞いた」でも用いられている単語らしい。信仰体験を表す言葉として考え絵画を引用することとした。