今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「復活節第6主日 (2025/5/25 ヨハネ17章20-26節)」。並行箇所はない。3年前の記事がある。
福音朗読 ヨハネ17・20-26(復活節第七主日の箇所)
〔そのとき、イエスは天を仰ぎ、弟子たちのために祈って言われた。「聖なる父よ、〕20彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。21父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。22あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。24父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。25正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。26わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」
3年前の記事と今の気持ちは変わっていない。福音のヒント冒頭で、「あえてこの第7主日の箇所で「聖書の集い」を行なうことを提案したいと思います。一読すれば、主日のミサで読まれないのはあまりにも惜しい箇所だということが分かるでしょう。」と書かれているが、残念ながら私には全く共感できない。感動的な箇所に感じられる人は少なくないかも知れないが、私にはイエスが本当にこんなことを言ったとはにわかには信じられない。弟子たちが選ばれた者という考え方を強調しすぎるのは抵抗がある。ただし、ある人々に対して特別なことが起きることはあると思っている。パウロに何かが起きたことは否定し難いし、パウロもイエスに従っていた弟子たちに何かが起きていたと考えていなければ連携を指向することはなかっただろう。
もし、ヨハネ伝の著者あるいは編集者が恣意的にイエスをして語らせたとしたら、極めて罪深いことだと思う。一方、パウロはコリント前書11章で聖餐の由来について書いているが、彼自身はその席にはいない。いないのに書いている。しかも、その書簡はマルコ伝より古いとされていて、書面化された福音書より前に書かれている。聖餐に関する伝承あるいは文書がなかったかどうかはわからないが、むしろパウロが昇天後のイエスから直接聞いたか、降ろされた聖霊によって知ったと考える方が適当と思わされる。であれば、ヨハネ伝の著者にも霊が降ったと考えることもできるだろう。物理的な場所や時系列に優先させるべきメッセージだと解釈する人もいるかも知れない。
それでも私は相当怪しい箇所だと思う。
福音のヒント(2)に出てくる「聖なるものとして下さい」に関連付けられているἁγιάζω (hagiazó)は新約聖書で最初に出てくるのはマタイ伝6:9で主の祈りのみなをあがめさせたまえという単語である。マルコ伝には出てこない言葉だ。コリント前書の書き出しで使われている単語でもある。
聖なるものあるいは崇めるという言葉は、絶対的価値とするということを意味する。ある意味、実践的な意味で宗教の本質といえる。若かった頃の私は福音書はヨハネ伝を第一とし、受洗のきっかけとなったのはヨハネ黙示録だった。典型的な価値の転換、「聖なるものの絶対化」が起きたと言ってよいだろう。人間的に考えれば極めて危険な遷移と言えるが、起きてしまったことはなくならない。
聖書の記述が生前のイエスが行ったことなのか、そうではないのかを気にする必要はないという考え方もある。基本的にはその考え方に立つべきではない。だからといって、聖書を否定すれば済むわけでもない。イエスの側にいるのかいないのかという告白を求められることで、進むべき道を考えなければならなくなる。その時、聖書の記述を参照するのは当然だとしても、その背景にあるメッセージを読むしかない。必要なときには言葉を超えて霊は降ると考えている。