今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「主の昇天 (2025/6/1 ルカ24章46-53節)」。昇天に関しては、マルコ伝16章に並行箇所があるが[]で囲われている場所で後世の加筆と考えられる箇所、弟子たちに現れるの部分に対応するる部分はマタイ伝28章に並行箇所があるが昇天については明確に書かれていない。ヨハネ伝でも昇天について明確に書かれた箇所はないが、20章17節に「まだ父のもとに上っていない」という記述があるので昇天は当然のことと認識していると考えてよいだろう。3年前の記事がある。
福音朗読 ルカ24・46-53
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には〕46次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
6月になった。まもなく私の人生を変えた2020年6月7日から5年を迎えようとしている。一週前はペンテコステだった。今年は6月8日がペンテコステだから教会暦的に考えれば、6月15日が5周年ということになる。また、砧教会が公式に事実に向き合うことはしないという宣言をしたのが昨年6月16日。その翌週から地元の教会に通わせていただいている。今も、砧教会と金井美彦が悔い改めて正しい道を歩むことができる日を願って祈り続けている。
事実は重い。虚偽がまかり通れば一致は困難になる。福音書も同じで、相反する記述は多くあり、実際に何があったかは容易にわからない。聖書学者は長期にわたって真実を追求してきたが、答えが出ているわけではない。
ルカ伝は唯一昇天を明示的に記載している福音書だ。日本語版のWikipedia「キリストの昇天」は矛盾点を含めて昇天の事実を考察している。根拠はないが、私は弟子たちは喧騒のエルサレムからガリラヤに逃れて、復活のイエスにガリラヤで会ったのではないかと考えている。まだ終わったわけではないと確信して再びエルサレムに上り、ペンテコステがおきたと考えたい。イエスの磔刑と恐らく日食があって集団ヒステリーのエネルギーが生まれ50日程度ではその熱は冷めきっていなかっただろうから、ペンテコステ事件で再び集団ヒステリーが形を取ったのではないか。特定の環境下でおきた事件だが、同時に時間を経て冷静にイエスとは何者だったのかと考える持続的な行動に結びついていったのだろう。
実際に事実はどうだったのかは容易に明らかにできないが、文書化のニーズはあり、ルカ伝、使徒行伝は報告書的な文書として書かれたように見える。文書化しようとすると矛盾も明らかになるが、どうしても正史を求めてしまう。聖書に書かれているとおりかどうかはともかく体験はあったのだ。正義ではなく愛を中心に置く教えには抗いがたいものがあり教義が精錬されていくことになる。同時に、そこから正邪が明文化されるようになると本来1対1の関係で愛が働く奇跡が律法主義によって上書きされるリスクが大きくなる。律法は廃れないが、愛に生きよという教えに回帰しようという動きと行きつ戻りつを繰り返すことになる。
愛国主義は人を殺す。愛は国、あるいは組織に向かいすぎると牙を剥くのだ。
今日の箇所は、ペンテコステの準備にあたると考えることができる。復活のイエスはどこにいるのかと疑問がわくのは当然だからこの世を離れたことを記述しておく必要が生じる。一方で、聖霊の形でこの世に関与することがペンテコステ事件で明らかになる。また、必要があれば復活のイエスはいつでもどこでも直接人の形をとってこの世に関与することがあると考えられている。時には貧困にあえぐ人の一人として現れたり、奇跡を起こす主体となったりするが、誰が復活のイエスであるかは簡単には理解できない。だから、隣人を介して復活のイエスに出会ったという信仰的発言が生まれる。その事実の検証は不可能だ。
福音のヒント(5)では「わたしたちの歩みは肉体の死で終わる歩みではなく、死を通って最終的に神のもとに(天に)至る歩みなのです。」と書かれている。個々にとっては神のもとに至る歩みではあるが、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」によって共に輝かしい未来を作り上げていく歩みでもある。
罪を認めることができない者は許しようがない。「罪の赦しを得させる悔い改め」とは何を意味するのかはとても重要だと思う。罪を犯すこと無く生きていくことは誰にもできない。真実の悔い改めがあれば罰はいらない。逆に罰を逃れるために事実を曲げれば罪は残り続けることになり、それは滅びに至る道ということになる。
誤りを認められない状態のままの牧師を教壇に立たせてはいけない。
※画像は英語版Wikipedia経由でたどり着いたStained glass window showing the Ascension of Jesus, at Church of the Good Shepherd (Rosemont, Pennsylvania)。絵画や芸術品のもつイメージの力は強く、人の意識に定着してしまう。そのうちに、こんなシーンがあったのではないかと思い込んでしまいがちだが、十分に注意を払わなければ危ない。