今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「復活節第5主日(2025/5/18ヨハネ13章31-33a,34-35節) 」。並行箇所はない。3年前の記事がある。
福音朗読 ヨハネ13・31-33a、34-35
31さて、ユダが〔晩さんの広間から〕出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。33a子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
3年前に書いたことと、気持ちは変わっていない。
福音のヒント(1)で、栄光という言葉について触れている。コンコルダンスではδοξάζω (doxazó)という言葉で、ヨハネ伝では23回使われているが、ルカ伝では9回、マタイ伝では4回、マルコ伝では1回用いられている。マルコ伝は「中風の人をいやす」の2章12節で「神を賛美した」というところで使われている。マタイ伝は「中風の人をいやす」のほかに「地の塩、世の光」の箇所で「あなたの父をあがめるようになるためである」というところ、「施しをするときには」、「大勢の病人をいやす」で用いられている。ルカ伝で最初に出てくるのは生誕劇で良く取り上げられる「羊飼いと天使」の2章20節で羊飼いが神をあがめるという箇所。
ある意味、各福音書の性格を表す言葉と言える。一番古いマルコ伝では1回だけで、マタイ伝で3箇所追加、倫理的解釈が加えられている。ルカ伝で意図的な持ち上げが加えられ、ヨハネ伝では恐らく事実に反する解釈記述が多数加えられていると考えられる。だからヨハネ伝がだめだというわけではない。事実だけだと解釈に幅が出るし、人間イエスは常に理想的な存在だったとは思えないから、美化しないと心が離れてしまう人もいるだろう。
マタイ伝の「施しをするときには」では、人から栄光を受けてしまえば既にその善行は神の評価にカウントされなくなるといったニュアンスがあり、めざせ神の栄光というすすめがなされている。良いことも悪いこともすべて神は見ているという価値観の刷り込みと言っても良い。
この箇所に照らせば「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」は人から栄光を受けることを示しているともとれる。互いに愛し合いなさいという命令があったかどうかもわからないが、助け合うことができなければ教えの維持は困難だっただろう。一方で、解釈が強くなってくると、排他性が高まっていく。必然的に神の権威を借りて人が人を裁くようになる。復活節はペンテコステあるいは教会組織設立までの移行期といえ、結束を強調するような側面があり、慎重に考えたほうが良い。福音のヒント(4)の「あまりこのことにこだわらないほうがよいでしょう」に共感する。
先週、機上で教皇選挙を見た。
映画を見ながら、3年前に『福音のヒント(4)にあるように「イエスの教えは本来、ウチとソトを区別するようなものではなかったはず」』と引用したのが想起された。特に最後の約15分は衝撃的だった。ネタバレになるので委細は書かないが、この結果で良いと私は思った。機会があれば、ぜひ自分の目で見ていただきたい。
映画では、過去を隠すもの、買収するもの、比較誠実ながら権力欲から逃れられないもの、ナショナリストが次々とスキャンダルで敗退していく中で、善意を主張するものもが現れる。しかし、決して無傷なものはいない。それでも「互いに愛し合いなさい」とはどういう意味を持つのか迫ってくる。私は、実際のコンクラーベでも権力争いを超えた善意が働くことを期待するし、隔ての中垣が取り除かれるために叡智が使われることを願っている。決してスーパーマンが現れて世直しが成功するというような幻想に溺れてはいけない。いかに小さな存在で無力を感じても、自分がこの世の構成要素の一つであることを忘れてはいけない。
教勢が落ちれば、組織は経済的に維持できなるから、自己防衛に走りがちだが、そういう時にこそ、本当に大事にしなければいけないことは何かを考えるのが良いだろう。事実に向かい合うことなしに未来が拓けることはない。
映画より現実はさらに厳しいが、救いは間違いなくある。
※画像は英文Wikipedia New Commandment経由で引用させていただいたDuccio di Buoninsegna: Maestà。この箇所の絵画はなかなか見つからない。Tissotのものもあるようだが、出典がはっきりしないので引用しなかった。