新生活214週目 - 「盲人バルティマイをいやす」

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今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第30主日 (2024/10/27 マルコ10章46-52節)」。3年前の記事がある。マタイ伝20章とルカ伝18章に並行箇所がある。バルティマイという固有名詞はマルコのみで、マタイ伝では2名の盲人となっている。

福音朗読 マルコ10・46-52

 46〔そのとき、イエスと弟子たちは〕はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。47ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。48多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。49イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」50盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。51イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。52そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

WikipediaのHealing the blind near Jerichoによれば「バルティマイの癒しがマルコ福音書におけるイエスの最後の癒しである」という説があるらしい。そして、福音のヒント(4)では「もしかしたら、バルティマイは、マルコのいた教会の中で知られていた人物だったのではないでしょうか」という仮説を提示している。組み合わせれば、最後の治癒奇跡でそのままイエスの磔刑を乗り越えて信徒になった人ということになる。「先生、目が見えるようになりたいのです」という盲人の切なる希望は理解しやすい。誰にでも良い意味で「先生、〜になりたいのです」という希望はある。私の場合であれば世の理を理解できる人になりたい、とか他人の言葉を理解できる人になりたいとかが候補になるが、バルティマイのような切実性はない。切実には困っていないのである。

受洗した頃はどうだっただろうか。若かったということもあるが、誠実かつ上手に生きることができるようになりたいということだったのだと思う。今でも上手に生きることができているとはとても思えないが、信仰告白して良かったと思っている。

弟子たちがどんな人たちであったかはわからないが、恐らく日常生活で不自由を感じる人達ではなかっただろう。内心を理解することはできないが、恐らく切実性はなかったのではないだろうか。

洗礼者ヨハネに洗礼を受けた人たちの中にも強い切実性をもっていた人もそうでない人もいただろう。恐らくイエスもその一人だった。悩みは抱えていただろうが、どうしても超えられない壁があってヨハネに頼ったとは思えない。しかし、それほど切実でなかったとしても、大きな変化が起きることはある。イエスの場合は、精霊が降ったとある。

バルティマイは、目が見えるようになりたいという願いがかなっただけでなく、なお道を進まれるイエスに従った。新しい人生が始まったのである。私は福音のヒントの「もしかしたら、バルティマイは、マルコのいた教会の中で知られていた人物だったのではないでしょうか」が事実だったら良いなと思うのである。

イエスに出会って信仰告白すると人生は変る。バルティマイのように切実な願いが叶えられるとは限らないが、いずれ必ず道は示されるものだと信じている。

※画像は、WikipediaのHealing the blind near Jerichoあから参照されているFile:Christus Bartimaeus Johann Heinrich Stoever Erbach Rheingau.JPGから引用したもの