今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第31主日 (2024/11/3 マルコ12章28b-34節)」。3年前の記事がある。マタイ伝22章とルカ伝20章に並行箇所がある。
福音朗読 マルコ12・28b-34
〔そのとき、一人の律法学者が進み出て、イエスに尋ねた。〕28b「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 29イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 31第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 32律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。33そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」34イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
福音のヒント(2)にあるように、イエスの答えは申命記6章4節から5節にある。福音のヒントで第一朗読となっているが、もう少し広い範囲で申命記6章を読むと剣呑な内容である。アンダーラインは筆者。
1 これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。2 あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである。3 イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。10 あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、11 自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、12 あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。13 あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。14 他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。15 あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。
モーセ五書が文書化されたのはダビデの時代から約500年も後(モーセ五書の編纂参照)であり、モーセが実在したとして700年以上経過しているので、アンダーラインを引いた10節〜12節、あるいはそれ以降は為政者による追記ではないかと感じられる。現代的に言えば、イスラエルは安住の地を持たない難民だった。モーセが独立運動を指揮して、軍事力でパレスチナに侵攻し、独立を獲得した。王権神授説に基づいていて唯一神を憲法に明記している宗教国家(ユダヤ教国家)だと言える。モーセ五書に基づく神の民という考えは現在でも続いていて、国土を失ってディアスポラとなっても、ずっと再独立が志向され、現在はかなり異質ではあるがイスラエルは国家として認められている。アンダーラインの部分は、現在のガザやヨルダン川西岸への入植を想定させる邪悪さに満ちている。こんな考え方で国土を拡大してもやがて滅ぼされるのは歴史の必定だろう。
一方で、世界には廃墟になってしまって人の住まない場所はたくさんある。経済力があれば、生きている人を追い出すことなく新たな国を築いていく道がないとはいえない。イエスはどう考えていたのだろうか。今日の箇所で、イエスはあえて「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』」を加えている。まず第一に権力者にへつらうのではなく神に仕えよ、それによって人は平等の立ち位置になる。平等の立ち位置になったときに、他人を自分と同じように大事にすれば共存、あるいは共存共栄が可能になる。入植して虐げるような存在になってはいけないと教えているのではないだろうか。
主の祈りでは、御国を来たらせ給え、と祈る。イスラエルは御国ではないということだ。同様に教団も御国ではない。人間の集まりだからドロドロとした感情的対立から自由になれることはない。しかし、第二の掟が機能している社会を構築する共同体と位置づけることはできる。一人で社会を変えることはできない。集団で同じ方向に向いて改革を進めることには意味があるし、集団が大きくなれば大きな効果を生み出すことができる。たった30人でも社会に影響を及ぼすことはできる。持続性のあるコミュニティは稀で、一定の成功を上げた後に自己防衛を第一に掲げてしまうケースは多い。積み上げた成功が大きければ倒れるまでに時間はかかるが、恐らく『隣人を自分のように愛しなさい。』という原則から道を踏み外せばやがて滅びていく。情けは人の為ならず、である。
人が育ち、国が栄えるのは素晴らしいことだ。しかし他人から奪って得た繁栄が持続的な理由がない。申命記の記載は、すでに没落を内包しているとしか思えないのである。イエスは第一の掟に疑念を抱いていなかったが、イスラエルの侵略性を認めていなかっただけでなく、クーデターによる国家の改変も目指さなかった。むしろ、超国家的な御国の実現を目指すコミュニティ(教会)とそのリーダーの育成に注力した。第二の掟が、コミュニティの評価指標を与えることになる。
教会組織や牧師の身分を守ることは御国を来たらせることと一致するとは限らない。国を守る、あるいは国のリーダーを守ることと民の命を守ることが一致するとも限らない。
「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」は、第二の掟と同時に進められれば御国を来たらすために資する。
隣人とは、事実を曲げる扇動者を含む全ての人を示すことを忘れてはいけない。同時に、邪悪な行為はなんとかして止めなければいけない。間違っても勝ち馬に乗ろうとしてはならない。あなたの真の神を見つけ、第一の掟に忠実になるのが吉。
※画像は、WikipediaのGreat Commandmentから現代版の「これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」の額。キリスト教版だから、下側に『隣人を自分のように愛しなさい。』がある。