キリスト教
新生活240週目 - 「イエス、弟子たちに現れる」
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トマスは何者なのだろうか。血筋に意味をおいたら教義は破綻する。一方で、もし一緒に育ったなら、自分の目で見たイエスの行動に基づいて考える以外の道はないだろう。
新生活239週目 - 「復活する」
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クリスマスとイースターの世の中でのうけは圧倒的にクリスマス優位である。誕生はめでたいイベントとして受け入れやすいが、復活は磔刑に引き続くイベントだから直感的にめでたさは感じられない。ただ、意味を噛み締めてみると、はるかにめでたいイベントである。殺されても終わらなかったからだ。
新生活238週目 - 「ピラトから尋問される〜イエスの死」
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「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」はとても印象的だ。恐らく史実ではない可能性が高いが、私は、この箇所がEUの死刑廃止(禁止)を導いたのだと考えている。
新生活237週目 - 「わたしもあなたを罪に定めない」
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恐らく「後の時代の人が本来のヨハネ福音書に書き加えた箇所」という聖書学者の主張は正しいだろう。その上で、イエスの行動指針の解釈としては強い納得感があり共感を誘う。聖書の読み方について考えさせられる箇所だと考えている。
新生活236週目 - 「「放蕩息子」のたとえ」
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福音のヒントには「わたしたちは(兄、弟)どちらの立場でこのたとえ話を聞くことができるでしょうか」と書かれているが、誰しも兄と弟双方の側面を持っている。誰かと比較して自分の道を考えていくのではなく、本当に自分がなすべきことは何かを考えさせられる話だから印象に残るのではないだろうか
新生活235週目 - 「悔い改めなければ滅びる〜実のならないいちじくの木」
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WikipediaのParable of the barren fig treeのプロテスタントの解釈の節では「園丁はイエスです」と書かれている。
新生活234週目 - 「イエスの姿が変わる」
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神の声が聞こえたという記述はイエスの洗礼の時とこの不思議な物語の2回だけだと思う。共観福音書全てでこの物語は記録されているので、使徒たちの経験として語られていたことなのだろう。しかし、どの山で起きたことなのかは記録されていない。事実はあったのだろうか。
口語訳古事記
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創世記を意識しながら、古事記を読んだら、ネフィリムの記述に類似性を感じた。独り神という記述は聖書にはなく、ずっと最初の神が今も活動している建付けになっている。古事記では、死ぬ訳では無いがいなくなる。だからどうというわけではないが読み物として面白い。