キリスト教
石破ドランプ会談の評価
私は、トランプは人権と自由の敵だと心の底から思っている。
新生活229週目 - 「漁師を弟子にする」
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漁師を弟子にするという話はマタイ伝、マルコ伝でも出てくるが、ルカ伝だけに不漁と豊漁の話が記載されている。また、ヨハネ伝では復活後の話としてこの不漁と豊漁の話が記録されている。印象的な話なので、こういうことがあったのではないかと信じたくなるが、史実はなかったかもしれない。
新生活228週目 - 「神殿で献げられる」
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この箇所は、これから始まるイエス伝の導入部として、こんなこともあったと伝えられているという記事として読んでおけばよいのだろうと思っている。様々な疑いの目をもって読んだ上で、第二朗読を読むと、目が開かれるような気持ちがした。
新生活227週目 - 「ガリラヤで伝道を始める~ナザレで受け入れられない」
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今日の聖書箇所を共観福音書間で比較すると、ルカ伝の解釈に踏み込みがあるように感じられる。私には、パウロの回心から引き戻して記載されているように感じられる。キーワードは霊。
新生活226週目 - 「カナでの婚礼」
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カナの婚礼の奇跡は印象的な記事だ。しかし、共観福音書では記録されていない。場所の特定を模索する動きは理解できるが、私は史実は存在しないのではないかと思う。
新生活225週目 - 「イエス、洗礼を受ける」
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イエスの洗礼の記事は、ほぼ共観福音書の記述が一致している。また、その後に荒れ野の誘惑についても同じように書かれている。洗礼を受けたら、その後は様々な誘惑から守られると考えることはできない。生きている限り、常にリスクに晒されることになる。それでも、信仰告白の原点に戻り、聖霊に期待することはできる。
新生活224週目 - 「占星術の学者たちが訪れる」
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東方の3博士の話は、クリスマス劇で良く取り上げられることもあって、そういうシーンがあったのだろうと思っていた。しかし、改めて読み直すとありえない話に思えてくる。特に公生涯前の記事にはそういう箇所が多い。聖書を字句通り信じることが信仰とは言えないだろうが、信じるとはどういうことかと考えさせられてしまう。
新生活223週目 - 「神殿での少年イエス」
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繰り返し同じ箇所を読み直して、3年前と比較していると、徐々にその箇所の話だけではなく自分で調べたりした前後や背景などを面で考えるようになって来る。所詮、専門教育を受けていない無学なものの考察に過ぎず間違いも多いだろうが、イエスを取り巻く環境がどうだったのかが見えてくるような気がする。