新生活244週目 - 「イエスの祈り」 画像 私はこの祈りが生前のイエスによって実際になされたとは思えない。しかしながら、生前のイエスが行ったことなのか、そうではないのかを気にする必要はないという考え方もある。意識的ではなかったが、私の場合それが受洗の原動力になったのだろうと思う。 タグ キリスト教 新生活244週目 - 「イエスの祈り」 の続きを見る
新生活243週目 - 「新しい掟」 画像 栄光という言葉の原語はヨハネ伝で23回出てくるのに対して、マルコ伝では「中風の人をいやす」でしかでてこない。マタイ伝4回、ルカ伝9回と時系列とともに頻出化している言葉だ。言い換えれば、解釈補完が増加していった歴史がでていると考えることもできる。 タグ キリスト教 新生活243週目 - 「新しい掟」 の続きを見る
悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす 今日の説教でマタイ伝8章の『悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす』が取り上げられていた。興味深かったので感想をメモしておく。 タグ キリスト教 ライフスタイル 悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす の続きを見る
新生活242週目 - 「ユダヤ人、イエスを拒絶する」 画像 「イエスを拒絶する」保守派は自分が考える枠に外れるインフルエンサーを徹底的に弾圧する。枠にはまっていても権力への脅威は許さない。教皇というソフトパワーはイエスと同じくパラダイム・シフトの原点となる可能性を秘めている。 タグ キリスト教 新生活242週目 - 「ユダヤ人、イエスを拒絶する」 の続きを見る
新生活241週目 - 「イエス、七人の弟子に現れる〜イエスとペトロ」 画像 イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。…」は史実だろうか。 タグ キリスト教 新生活241週目 - 「イエス、七人の弟子に現れる〜イエスとペトロ」 の続きを見る
新生活240週目 - 「イエス、弟子たちに現れる」 画像 トマスは何者なのだろうか。血筋に意味をおいたら教義は破綻する。一方で、もし一緒に育ったなら、自分の目で見たイエスの行動に基づいて考える以外の道はないだろう。 タグ キリスト教 新生活240週目 - 「イエス、弟子たちに現れる」 の続きを見る
新生活239週目 - 「復活する」 画像 クリスマスとイースターの世の中でのうけは圧倒的にクリスマス優位である。誕生はめでたいイベントとして受け入れやすいが、復活は磔刑に引き続くイベントだから直感的にめでたさは感じられない。ただ、意味を噛み締めてみると、はるかにめでたいイベントである。殺されても終わらなかったからだ。 タグ キリスト教 新生活239週目 - 「復活する」 の続きを見るコメント数 1
新生活238週目 - 「ピラトから尋問される〜イエスの死」 画像 「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」はとても印象的だ。恐らく史実ではない可能性が高いが、私は、この箇所がEUの死刑廃止(禁止)を導いたのだと考えている。 タグ キリスト教 新生活238週目 - 「ピラトから尋問される〜イエスの死」 の続きを見る
新生活237週目 - 「わたしもあなたを罪に定めない」 画像 恐らく「後の時代の人が本来のヨハネ福音書に書き加えた箇所」という聖書学者の主張は正しいだろう。その上で、イエスの行動指針の解釈としては強い納得感があり共感を誘う。聖書の読み方について考えさせられる箇所だと考えている。 タグ キリスト教 新生活237週目 - 「わたしもあなたを罪に定めない」 の続きを見る
新生活236週目 - 「「放蕩息子」のたとえ」 画像 福音のヒントには「わたしたちは(兄、弟)どちらの立場でこのたとえ話を聞くことができるでしょうか」と書かれているが、誰しも兄と弟双方の側面を持っている。誰かと比較して自分の道を考えていくのではなく、本当に自分がなすべきことは何かを考えさせられる話だから印象に残るのではないだろうか タグ キリスト教 新生活236週目 - 「「放蕩息子」のたとえ」 の続きを見る