新生活236週目 - 「「放蕩息子」のたとえ」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「四旬節第4主日(2025/3/30 ルカ15章1-3, 11-32節)」。3年前の記事がある。共観福音書に並行箇所はない。

福音朗読 ルカ15・1-3、11-32

  1〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。
  11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」


Biblehubのクロスリファレンスでは、申命記21:18の「反抗する息子」が引用箇所となっている。反抗する息子は町の住民が石打ちの刑で殺せというハードな内容である。申命記史家の価値観が反映されていると思われる。それに対して、この箇所では融和的に書かれている。厳罰で統制しようという考え方は、実際には事実が隠蔽され、持続性がない。もちろん、緩すぎれば悪さをする人は増えてしまう。できれば、すべての人に高い倫理感を持ってほしいと思う人も少なくないだろう。

力がなければ生き残れないという現実はある。生き残っていくためにはその道を探らなければならないが、権力にすり寄るのは安易だが有効な手段と言える。ただ、どのような道を選ぼうと、安泰などない。安泰に見えても、あっという間に苦しい立場に置かれてしまう例などいくらでもある。金持ちを羨んだり、美形に嫉妬したり、運動能力や高学力に憧れてしまうことはあるが、この歳になってみれば、成功を保証するような属性は存在しないことはわかる。清廉な努力を続けてきたつもりでも、例えば自分が差別する人であることに気がつけなくて道を踏み外してしまった悲しい事例もある。

放蕩息子の話で、父親は弟が家を出ていくことは分かっていただろう。揉め事を抱えるより、弟が家を出ていくほうがリスクが小さいと考えなかったとは思えない。損得勘定だけで割り切っていたとは思わないが、経済的には良い選択をしたと言えなくもない。実際、父親と兄は栄え、弟は没落した。能力も運もあるだろう。

弟も生きようと思えば、道を探すことになる。別の道もあっただろう。とはいえ、弟は父の愛で救われた。

兄は弟に嫉妬した。後日談は無いが、ひょっとすると最終的に家を継いだのは弟のほうかも知れない。放蕩の経験と改心が弟を変え、家の経済に大きな貢献をできるようになった可能性はある。外の世界をあまり知らない兄より、効率的な経営ができるようになった可能性もある。弟が行うことがどんどん当たり、従業員が弟を支持するようになったら兄は辛いだろう。現実世界でもそういうことはある。誠実に生きれば報われるというわけではない。

福音のヒント(5)は「わたしたちは(兄、弟)どちらの立場でこのたとえ話を聞くことができるでしょうか」と結んでいる。三年前の私は「民衆は結局体制側、強きになびいてイエスを十字架につけて殺してしまうのである」と書いている。

私自身は、兄のメンタリティを持ちつつも、行動は放蕩息子のそれで振り返れば使わなくて良いことに使ってしまうことがある。後悔はないが、もうちょっと賢く行動できていたら、親の支援を受けなくても済んだかも知れない。どちらの立場で読むかという観点も否定しないが、包摂とはどういうことなのだろうかという問いに対する提案と捉えるのが良いのではないかと考えている。

人生は計画通りに進むわけではない。うまく行っても行かなくても、道を探し続けるしかない。

※画像はレンブラントのThe Return of the Prodigal Son