今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「死者の日 (2025/11/2 ヨハネ6章37-40節)」。福音のヒントの「教会暦と聖書の流れ」によれば、通常のC年の箇所とは異なる割当になっているとある。私にとって「死者の日」という言葉は聞き慣れないものだ。カトリック中央協議会に「死者の日とは?」という記事がある。私の知る限りプロテスタントでも11月の第一日曜日に召天者記念礼拝を行う教会は多い。
福音朗読 ヨハネ6・37-40
〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕37「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
11月2日に「すべての死者を記念する習慣」をもつという考え方は受け入れやすい。盆と似た習慣と考えて良いだろう。
福音のヒントで触れられているが、「教会暦と聖書朗読 2025年度」の付録Ⅲ 8.死者を見ると、福音朗読の選択肢はたくさんありルカ伝の選択肢も4箇所ある。本日選ばれている箇所は、6:22-59の「イエスは命のパン」の一部でこの段落には平行箇所はない。39節の「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」が印象に残る。その前の37節に関して福音のヒント(4)に「まるで神が前もって信じる人と信じない人を決めてしまっているかのような言い方」とあるが、恐らくヨハネ伝の母体となる教会の考え方はそのとおりだったのではないかと思う。ただし、人は誰かが救われる側に定められているかそうでないかは判別できないので、自分が選ばれていない側にいるかを知ることはできず、選ばれているのにもかかわらず救いに漏れることのないように努力する以外の道はない。ヨハネ伝は、知識偏重(グノーシス主義)傾向が強く、神と人との直接的な関係を重視し、その結果教会に集うという考え方に立っているように読める。マルコ伝、ルカ伝が教会に集うことが救われる要件とする傾向が強いのとある意味で対極をなす。
38節の「天から降って来た」の降って来た(καταβαίνω (katabainó))という言葉は新約聖書で87回使われていて、イエスの受洗のシーンで鳩のような霊が降ってきた時(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)に用いられている単語。イエスが自ら「わたしが天から降って来た」と言ったかは疑わしい。どちらかと言えば、「自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うため」に私は生まれてきたと言明しそうな気がする。もう60年以上前のことなので、記憶があやしいが、自由学園の礼拝で多分赤木教諭から「あなたは世の中を良くするために生まれてきた」と教えられたように覚えている。キリスト教主義の学校はある意味で教会でもある。「羽仁もと子先生生誕150年記念礼拝」で「自由学園は一私人の機関ではない。神の国の公器である。神至上主義の生きた団体が、殊に現在の教育の世界に必要であり、それがまた永遠の本当の教育のたましいでなくてはならないために、自由学園は生まれることを許され、存在することを許され、また永く生きなくてはならないのである。」という創立者の言葉が引用されている。どのような組織であっても、そのリーダーの思想あるいは解釈による価値基準が強要されるが、神の国の公器という自覚がなければキリスト教主義の組織の長期持続性はない。ただ、それは十分条件ではない。不断の見直しは避けられない。カトリック教会も同じだと思うし、個別の教会も同じだと思う。そして、その働きは一律ではありえない。それでも、公器であらねばならず、大半は淘汰される運命にある。
ヨハネ伝の母体となる集会は恐らく絶えて、残ったのはマタイ伝的な集会とルカ伝的な集会なのだと思う。しかしながら、その残した言葉は今も残っている。特に「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」には強烈なインパクトがある。わたしたちは、自分が神がイエスに与えてくださった人であるという「信仰」あるいは盲信に基づいて、失われる側に陥ることが無いよう努力するしかないのだと思うのである。