今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「年間第16主日 (2025/7/20 ルカ10章38-42節)」。並行箇所はない。3年前の記事がある。
福音朗読 ルカ10・38-42
38〔そのとき、〕イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
福音のヒント(4)でヨハネ伝でマルタとマリアの姉妹が出てくることを指摘している。11章の「ラザロの死」と12章の「ベタニアで香油を注がれる」で、登場する。マルタ(Μάρθα)という名前は新約聖書で13回出現し、恐らくベタニアにいた姉妹だろう※※。このマリアが香油を注いだ人の可能性が高い。マルコ伝14章の香油のシーンでは、「ベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて」と書かれていて、このシモンはヨハネ伝のラザロを想起させる。どの箇所でもマリアはイエスに心酔している感じで、恐らく当時の常識からははずれた行動をとっていた。一方、マルタは常識人に見え、頼りになる人に見える。
マリアは、この人は本物だと信じていたのだろう。そして、風向きが変わってしまっていることも感じていてまもなく逮捕されると考えていたようにも読める。一方、マルタは今の現実に忠実に見える。
ちょっと引いてみると、夢見る妹と働き者の姉という感じだろうか。
一人の人間の中にも、両面がある。個人の単位でも、家族でも、企業のような集団でも、国でも日常的なオペレーションの積み重ねで現実が守られる。一方で、中長期視点で進むべき道を誤れば努力は灰燼に帰す。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」を忘れてはいけないということだ。それが何を意味するのかを理解する上で、イエスの話を聞くというのは日常的なオペレーションに優先して良いと考えて良い。劣後させられないこともあるとは思うが、やはりマリアの選択は適切だったと言って良いと思う。ただ、マルタはマルタなりの信仰に生きたという伝承もあるようで、カトリックでは聖人とされている。
今の現実に注目するという意味では、侵略が起きている時は、その対応を最優先にせざるを得ない。災害や疫病にも優先対応せざるを得ない。それでも、そんな時期であっても本来進むべき道を忘れずに考え続け、施策を立案、推進する人は必要だ。
皮肉な話だが、札幌開拓は第一次世界大戦に起因する好景気や朝鮮戦争特需によって得られた資金が投入されて進んだ。住みよいインフラ整備を検討していた人は存在した。日常のオペレーションを超えて、有りたい姿と実現手段を検討していた人が存在しなければ、今の繁栄はなかっただろうし、そういう人たちが生きていける資金は何らかの形で供給されていた。それが搾取に基づくものだったケースもある。綺麗事だけでは動かない。また、風が吹かなければ動かないことはある。
福音のヒント(3)にあるように、他人との比較で十分に評価されていないと考えてしまうシーンはたくさんある。最近の風向きは〇〇ファーストという俺達は報いられて当然という考え方だ。どう考えても「隣人を自分のように愛しなさい」とは相容れないのにアメリカでは多くの信徒がトランプを支持してしまっている。ドイツもウクライナ戦争に対する積極関与が指示される状況になっている。時代の風は荒れているが、その中でも未来を見据えて考える人は必要だろう。
現代のマリアは、USAIDやハーバード大学等かもしれない。短期に注目するマルタの意見にしたがって、すぐに成果が出ることをせよとマリアに迫るのは適切ではないとイエスは言うだろう。もちろん、マリアもマルタへの感謝と敬意を忘れてはいけない。マルタなしでも、マリアなしでも未来は拓けない。
日本では、今日は参議院議員選挙の日だ。本来であれば、衆議院にマルタ、参議院にマリアが期待されている。風向きが悪いとは言え、より長期的な視点でよりよい未来を計画できるようになれると良いと願っている。
※ 画像はWikipediaのMarthaの記事経由で到達したDiego Velázquez: Christ in the House of Martha and Mary。
※※ 香油のシーンはエルサレム近郊のベタニアだっただろうが、もともと姉妹はガリラヤ近傍のMagdalaの住民だったのではないかと考える考え方もあるようだ。その場合、この記事のマリアはマグダラのマリアが同一人物ということになる。当時エルサレムでもイエスの噂は広がっていただろうが、マリアの熱烈さを考えると、ガリラヤ時代からの信徒と考えたほうが納得しやすい。兄弟であるラザロあるいはシモンの治癒奇跡で信仰に入ったと見ることもできるかもしれない。史実がどうだったかはわからない。マグダラのマリアは十字架のイエスを見ていて、空の墓の確認もしていることを考えると、兄弟揃ってガリラヤからエルサレムまで従ってきていたと考えても良いと思う。