新生活177週目 - 「重い皮膚病を患っている人をいやす」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第6主日 (2024/2/11 マルコ1章40-45節)」。マタイ伝8章、ルカ伝5章に並行箇所がある。NIVではJesus Heals a Man With Leprosyという表題がつけられていて、BSBではThe Leper's Prayerとなっている。3年前の記事がある。日本では、癩病、ハンセン病という言葉が避けられて重い皮膚病という言葉が用いられている。長い差別の歴史があるだけに言葉を封印する動きがあるのはわかるが、科学的な事実に接することが容易になったことを考えれば、むしろ癩病という言葉を再び使うようにした方が良いのではないかと思う。BSBは癩患者の祈りという見出しで、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」に注目しているのは興味深い。主体を自由を求める個人においている解釈と言って良いだろう。

福音朗読 マルコ1・40-45

40〔そのとき、〕重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と言った。41イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、42たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。43イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、44言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」45しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」はBSBでもNIVでも“If You are willing, You can make me clean.”である。日本語の聖書に比べると直接的で福音のヒント(2)の「あなたが望むなら、あなたはわたしを清めることができます」と同じだ。随分イエスと患者の距離は近い。もちろん、日本語文化では「あなたが望むなら、あなたはわたしを清めることができます」と言う事態は生じえないと思う。「回復を願っていただけましたら、きっと私は治ります」あたりが適当な表現かも知れない。でもシンプルに「あなたが望むなら、あなたはわたしを清めることができます」が良い気がする。患者はなんとしても治して欲しいと思っていたし、できるものなら何とかしてくれというのが本音だろう。態度は謙虚でも含意としては、治せなきゃお前はまがいものだというプレッシャーがにじみ出ているように思う。もしそうであれば、福音のヒントに書かれているように41節冒頭は「怒って」であってもおかしくない。売り言葉に買い言葉で治してしまったという解釈だって成り立つだろう。そうなるとイエスは自分の名誉を守るために力を使ったことになる。43節は我に返ってもみ消そうとしたのかも知れないし、影響を一度与えてしまえばもみ消そうとしてももみ消すことなどできなかったという解釈も成り立つだろう。

解釈はともかく、彼は求めて願いを達成した。

現実社会では強く主張するものは無視できない。放置すれば過激化するからだ。荒れないうちに解決できればずっと安くつくことを多くの人は知っている。それが正当な主張か、正統性のないものかは関係なく手を打たない訳にはいかない。ヨブ記を引用するまでもなく、癩病への罹患は自分で制御できる事象ではなく神に訴え出ても良いだろう。世間は自己責任だと責めるだろうが、本人にとっては意味がない。百歩譲って自責があったとしても、権利回復を願う者を弾圧するのは適切とは思えない。仮に売り言葉に買い言葉で治癒したとしてもイエスの行為は間違ってはいないと思う。力が有限であれば、良いタイミングで行使したほうが良い。この箇所は結果オーライの話と受け取っても良いかも知れない。

人の望みは様々である。今持てるものがより持てるようになることを願うのも自由だが、持たざるものを優先するのが好ましいとする現代の価値観の形成はイエスに負うところが大きいと思う。

虐げられているものは怒って良い。求めて良いのだ。ただし、その怒りに溺れてはいけない。しかし、やはり求めたほうが良いと思う。

※画像は、Jesus heals the lepers … and restores our relationshipsというページから引用させていただいたもの。