今週の箇所は「年間第6主日 (2021/2/14 マルコ1章40-45節) 」と、引き続き先週の直後の箇所である。この箇所は、訳の歴史的な背景があるので「重い皮膚病」という表現はしょうがないと思いつつも、かつての訳を憶えているものには違和感がある。
今日の福音のヒント(3)は、私にとって非常にインパクトがあった。本当は長く引用するのは好ましくないと思うのだが、非難されてしまうことを覚悟で引用させていただくこととする。
「深く憐れんで」は、元のギリシア語では「スプランクニゾマイsplanknizomai(=はらわたを揺さぶられる)」という言葉(C年年間第15主日の「福音のヒント」参照)ですが、ここには写本上の問題があります。現存する古代の多くの写本を比べてみると、それぞれ微妙な違いのある箇所があります。この箇所では「深く憐れんで」が「怒って」となっている写本があるのです。「深く憐れんで」のほうが分かりやすいことは確かです。しかし、書き写す際にわざわざ難しく書き換えることは考えにくいので、本来は「怒って」だった可能性もあります。もし「怒って」だとすれば、その怒りは何に対するものでしょうか。もちろん、目の前の病人に対してではないはずです。この人を苦しめている何ものかに対する怒りだと言ったらよいでしょう。いずれにせよ、イエスは目の前の苦しむ人との出会いの中で激しく心を揺さぶられ、その人を助けます。イエスは「神の国の到来」を証明しようとして「いやし」を行なったわけではないのです。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」(44節)という言葉にも、このようないやしの奇跡によって自分を理解されることを望まないイエスの思いを感じ取ることができます。
この『イエスは「神の国の到来」を証明しようとして「いやし」を行なったわけではないのです』というのは筆者の解釈だと思うけれど、私には納得感があった。イエスでなくても、社会的な不正義で苦しい思いをしている人に心動かされて、行動を起こす人はいる。「この人を苦しめている何ものかに対する怒り」は、気がついてしまった人に起きる怒りだと思う。もちろん、伝染病予防という観点からすれば、伝染性の病にかかっている人から距離を取ることは合理的なのだが、他の聖書の箇所を読む限り、当時はその病は罪の結果、あるいは親の罪の結果と考えられていた。それは現代においてもまだ克服できているとは言えない。病にかかった人を罪人とみなすような空気は今の日本にも他国にもある。今現在の私は奇跡物語にはかなり慎重な立場だが、この箇所は本当に奇跡的な治癒が起きなければ成り立たない箇所だと思う。何か事実があったと考えないわけにはいかない。しかし、容易に信じるわけにはいかない。その上で、この箇所は差別に対する怒りは止められないものだという教えと受け取った。
折しも、オリンピック組織委員会会長問題が騒がしい時期である。私は、森氏には悪意がないと思っている。単に、彼の常識がある程度の割合の人が覚醒した現実を学ぶことができないでいるだけなのだと思っている。私もしばしば人を裁いてしまうが、彼を差別主義者だと断罪するのは違うと思う。女性を尊重する意思は本当にあると思うし、努力もしてきただろう。しかし、差別は女性という性という括りで個を見ないということにあるという点を理解できているようには見えない。SNSの議論を見ていても、森氏に怒りを覚えている人たちの中にも女性という枠で考えてしまうような主張は少なくない。「重い皮膚病」というもう自分ではどうすることもできない属性だけで人間として扱われないような常識のおかしさに気がついた人は怒る。それは正当な怒りだと思う。そして、気がついた人が一定の割合に達するまでは、権力者が仮に誠実であったとしても理解できずに「あなたの正義には辟易とする」と言ってしまうだろう(多分、今の森氏は本当に何が悪かったのか理解できていないのだろう)。権力者、独裁者は事実を見ることが難しいのである。やはり、おかしいことはおかしいと言ったほうが良い。ただ、しばしば発言者はその社会から抹殺される。イエスがやがて磔刑に処されるのは、おかしいことをおかしいと言ったことで権力者の怒りを買ったからだ。おかしいことをおかしいと言い続ければそれが本物であればやがて気がつく人は増えていく。今でも多数となっているかどうかはわからないが、「重い皮膚病」であることが人権を奪われて良いことにはならないと考える人は一定の割合を占めるようになっている。遅々たる歩みだが、神の国は来続けていると思う。
遅くなったが、本日の福音朗読箇所を引用させていただく。
福音朗読 マルコ1・40-45
40〔そのとき、〕重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と言った。41イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、42たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。43イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、44言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」45しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
多くの人は、奇跡の方に注目して集まってくる。それは人間が持っているかなり普遍的な特性なのだろう。しかし、キリスト教が2000年を経てまた残っているのは、奇跡の結果だとは思わない。その教えから覚醒する人が善き業を行ってきたからだろう。しかし、善き業を行っているからといって悟りを開いているとは限らないし、覚醒は終わりのない旅だからゴールなどないのである。
今、私は試練の時にある。今日こそはトンネルを出られる日なのではないかと願いつつ、毎回の主日礼拝の日を過ごしている。
※画像は新松戸幸谷教会のページにあるカファルナウムの会堂跡の写真を引用させていただいた。