新生活178週目 - 「誘惑を受ける~ガリラヤで伝道を始める」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「四旬節第1主日 (2024/2/18 マルコ1章12-15節)」。マタイ伝4章、ルカ伝4章に並行箇所がある。3年前の記事がある。

福音朗読 マルコ1・12-15

12〔そのとき、〕“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。13イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
 14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

3年前の記事でも荒野の誘惑の短さに触れている。改めて読み直すと、40日間岩砂漠に留まって生きていられるものなのだろうか。死海とエルサレムの間には1,000m以上の高低差と砂漠があり、誘惑の山とされている岩山が存在する。水の無い場所に見える。霊は飢餓体験を求めたのだろうか。数日なら持つかも知れないが、40日は不可能に感じる。一杯の水のために何でも引き換えに差し出したくなるように思う。イエスは神の子だから乗り切れたのだと思うのは自由だが、その通りの事実はなかったのではないだろうか。一人彷徨った事実はありそうな気がする。この時期は、イエスは神の子の自覚はなかったと私は思う。霊によって荒野に向かわせられたのか、自らの意思なのか明確に区別することは難しい。この道を行けという声とこの道を進むという意志は容易に区別できるものではない。洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、短くない期間を自分の道の確認に費やしたのではないだろうか。

誘惑は依存でもある。スーパーパワーへの依存で現状が変わることはあるが、完全無欠のメシアは来ない。イエスも完全無欠ではなかったと思う。

15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」は、イエスの覚悟だろう。今の私は、福音を信じなさいという言葉は、良いことは必ずできると信じなさいということだと思っている。イエスにとって時期が来たということでもあり、同時にこの世に時期が来たということでもあるだろう。神というスーパーパワーへの依存で何かをなすのではなく、依存を促すものを自らの意志で退け、自らの足で歩む道が望ましいという悟りを開いたようにも見える。神の国は近づいたというのは、律法学者のような仲介者を挟むことなく神との直接的な関係を持つのが正しいということだろう。もちろんひとつの解釈に過ぎないが、今の自分の解釈を記録しておきたい。

神話の神はスーパーパワーをどんどん発揮するが、史実としては、イスラエルは独立を保つことはできなかった。神頼みは長期的には隔ての壁を作り、結果的に敗北による崩壊を招く。イエスは権威や権力への依存を否定し、よく考えて良いことをしなさいと説いている。律法学者はよく考えている面があるので耳を傾けるべきだが、律法学者がやっていることが正しいわけではないということだ。本質を考えて判断せよということでもある。画期的だったのは、弱い立場の人であっても、諦める必要はないと説いたところにある。自分より力のあるものに依存した生き方をすれば、自分より力のないものを虐げても良いという考えに陥っていく。悔い改めて福音を信じなさいというのは、弱い立場の人を踏みつけにしたことを反省して、そうでない生き方をしなさいということにほかならない。それを真剣に考えると、立場の強い「人」におもねってはいけないということになる。どんな関係性であっても良いことは良く駄目なことは駄目だ。ただ、現実には何が良くて何が良くないことなのかは容易には分からない。当たり前のように良いことだと思っていたことが間違っていたことに気づくことは少なくない。終わりのない追求が続くことになる。

ともあれ、イエスはガリラヤで一歩を踏み出した。その時は十字架の終わりを想像していたわけではないだろう。踏み出した後も様々な困難に直面したが諦めなかった。不思議なことだ。そういう点ではやはりイエスはただの一人の人間とは思えない側面がある。神がどう動くかは想像がつかないが、イエスは霊の働きを通じて神の存在を確信したのだろう。公生涯の始まりである。

 ※冒頭の写真は誘惑の山と言われているエリコに近い場所Wikimedia Commons Dir El Qaratal - Monastery of the Temptation's, Cliffs of Doq (Dagon), Jericho