新生活179週目 - 「イエスの姿が変わる」

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今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「四旬節第2主日 (2024/2/25 マルコ9章2-10節)」。マタイ伝17章、ルカ伝9章に並行箇所がある。3年前の記事がある。

福音朗読 マルコ9・2-10

 2〔そのとき、〕イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、3服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。4エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。5ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」6ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」8弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
 9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。10彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

 福音のヒントの教会暦と聖書の流れには以下のように書かれている。

四旬節には、「洗礼志願者の準備」、「回心」とその具体的な表れとしての「祈り・節制・愛の行い」など、さまざまなテーマがありますが、そのすべてはきょうの福音のテーマ「イエスの受難・死・復活にあずかること」につながっています。

気になって洗礼志願者の準備で検索してみたらカトリック中央協議会の四旬節の記述がヒットした。この中では以下のように書かれている。

入信の秘跡の祭儀は、キリストの死と復活に初めて秘跡的に参加することであるから、復活徹夜祭に行われることがもっとも適している。したがって洗礼志願者の準備である清めと照らしは四旬節に、入信の秘跡直後の導きは復活節に行われる。こうして、入信の全過程が過越の性格を明白に示すものとなる。

カトリックがすごいなと思うのは、こういった文書が整理されていて、道が整えられていると感じさせるところだ。また「洗礼準備期は、教話よりも霊的集中によっていっそう深い心の準備をする期間である」と書かれているのも興味深い。キリスト教に関心を持ったら最初にやることは何か。何があったのかを知ろうとする人は多いだろう。イエスが生まれて、生きて、死んで、復活して、今も働いているという流れを追う。常識的に考えて処女降誕も復活も信じられるわけがない。聖書にそういう記述があるというのを確認するだけだ。数多く出てくる例え話や教えには自分の生き方に参考になる内容が多く含まれているので、徐々にイエスの意図に注目するようになる。しかし、だからといって復活が信じられるようになるわけではない。それでも、学びを進めるうちにイエスの本物感が高まる人は少なからずいる。現実的じゃないという思いがあっても教会という空間は厳しい現実社会と異なる愛のルールが機能していると考えざるを得ない瞬間もある。このコミュニティの中にいたいと思うようになれば、洗礼準備期を迎えたと言っても良いのだろう。知の力でここを越えようとするのは無理がある。「洗礼準備期は、教話よりも霊的集中によっていっそう深い心の準備をする期間である」に納得感がある。伝道者の視点にたてば、環境を整えて霊が働くのを待つ以外にない。人間にどうにかできることではない。できるのは環境を整えることだけだ。

環境を整えるという観点に立つと、カルト宗教もカトリックも変わらない。霊が働くというのは、論理的、科学的な考察を飛び越えて行動原理を変化させ固定化させる事象である。教会運営から見れば、どういう場を作り、どういうプロセスを踏めばより多くの人が回心するかが重要になる。詐欺師はカモの信心の獲得が重要なので、宗教の布教活動を分析してプロセスを考え、手法を確立することが富に直結する。ブランドだって変わらない。現実社会でひとつひとつを自分で分析していたら時間がいくらあっても足りないので、都度何らかの形で他者に依存しないわけには行かない。この水は飲んでも安心だと思えるか否かも一種の信仰である。

今日の箇所を読み直すと、常識的にはありえないことが書いてある。各共観福音書に出てくるので史実があったと考えるべきなのかも知れないが、この部分の記述を聖書から落としてもおそらく教えには影響しない。しかし、こういう不思議な話は理性の抑制を導くので霊的集中によっていっそう深い心の準備をする助けとなる。言い換えれば危ない話だと思う。

入信後理性の放棄が続くのは不都合である。私は、ちゃんとした宗教は、入信の儀式を経た後に理性を呼び覚まさせられているかで分かるのではないかと思っている。どんな組織でも言うことを聞く盲信者は便利なので、その力に頼る誘惑にさらされる。金の力や暴力で言うことを聞かせる組織もある。カトリックもその誘惑に日々さらされていて、堕ちたと考える人によってプロテスタントが生まれたと考えて良いだろう。しかし、プロテスタントも同じ誘惑にさらされる。妊娠中絶は是か非かといった二元論的な教条主義は愛を判断基準とする考え方にそぐわない。ある人物に対してその環境を見ずに裁くのはおかしい。理性は事実を重んじる。情報を集め、分析を行い、なすべきことを判断することで様々なリスクを軽減することができる。理性的に判断しても価値基準でその結論は正反対になる。集めた情報を短期的な富の獲得におくのと、中長期的な人権の確立に向けて施策を検討するのでは結論は異なる。地球温暖化のデータで何をやれば儲かるのかと考える人もいれば、温暖化を止めるために何をやればよいのかを考える人もいる。判断は結局は自分でしなければいけない。

教会、教団は入信者がいなくなればやがて破産する。国も子供が生まれなければやがて消滅する。危機に直面すると短期的な利益に目が向きがちになるし、組織防衛の意識は高まる。客観的に事実を見つめることが苦痛になる。自分、あるいは自分たちの負けが濃厚になってきている状態をうれしく思う人などいないだろう。

宗教の場合は、ここで神のスーパーパワーを頼りにする誘惑にさらされる。いわゆる困った時の神頼みである。戦争状態になっている時に、相手側で天災がおきたり、疫病がおきたりすれば戦況は変る。自分たちの努力とは関係ない理由で勝ち負けが変わることは現実に起きる。しかし、長い目で見ればこつこつとより良い社会を作り上げていく以外の道はないと考えるのが合理的だと思う。

今日の箇所はイエスの向こうにはスーパーパワーが控えているというように取れる。一方で、イエスは自由を諦めるなと繰り返し説いている。言い換えれば自助をさぼるなと言っている。ただ、一人ではどうにもならないことは多々あるから、助け合わなければ自由を拡大できない。さらに制度化で公助が機能するようになれば諦めずにすむ人は増える。スーパーパワーが存在すると肯定するとしても、それは人間が自由に使えるものではない。自分の富や幸せを願うのはちっとも悪いことではないが、排他的になって富や幸せに対して防衛的になってはいけない。なんたらファーストとうそぶく人に依存してはいけないのである。イエスが全ての力を統べる神に支えられているという信仰は霊的事象である。それが愛に生きよという価値観を肯定することに繋がり、日々の判断を変えていく。判断の結果で社会は僅かかも知れないが変化する。良いことも起きるし良くないことも起きる。それを理性的に分析して、次の判断を修正していけばよい。信仰と理性は両立させなければいけないものだと心から思う。

※画像は、Wikimedia Commonsから引用したこの聖書箇所の場所とされる山に建てられた教会(The Franciscan Church of the Transfiguration on Mount Tabor in Israel)