新生活23週目 - 「イエスの姿が変わる」

今週の箇所は「四旬節第2主日 (2021/2/28 マルコ9章2-10節)」。福音のヒントによると、「四旬節に「主の変容」の箇所が読まれるのは、教会の古い伝統です」とあったが、私は理解していなかった。現実離れした、とても不思議な箇所で、何かすごいことが起きたらしいという以上の意味を見出したことはない。

共同訳では「イエスの姿が変わる」という題が付されているが、私にとっては「山上の変貌」と呼ばれてきた箇所である。「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」とあり、この直後の箇所にエリア=洗礼者ヨハネと示唆する記述がある。弟子ヨハネは、洗礼者ヨハネの弟子だったので、エリアが洗礼者ヨハネであれば、見れば分かったはずだ。姿をはっきり見ることはできなかったということになるのだろう。福音のヒントより少し広く聖句を引用する。

マルコ9・2-13

2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

実は「山上の変貌」の箇所を考えるとロックオペラのジーザス・クライスト・スーパースターのスーパースターのシーンを想起してしまうのだ。

ジーザス・クライスト・スーパースターの描写では、最後から3番めのシーンで、神々しい姿(衣装)になったイエスに既に自殺したイスカリオテのユダが疑問を投げかけている。お前は何者なのかという問いだ。「山上の変貌」の箇所では、神が「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と直接イエスが何者かに言及している箇所となっている。私は信者なので、イエスが神の愛する子という記述に違和感はないが、イスカリオテのユダにとっては解けない謎なのだろうと思う。3人の弟子もイエスを宗教上のリーダーとして仕えていたけれど、少なくともこの時点で復活のイエスを理解しているわけではない。人間イエスもまだ何が起こるのかを完全には理解していなかったのではないかと思う。

今週の福音のヒントでインパクトがあると感じたのは福音のヒント(5)だ。あえて引用させていただく。

イエスの変容の姿は受難のイエスに従うよう弟子たちを励ますものでしたが、弟子たちは結局従うことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14章50節)と、マルコははっきり書いています。受難予告を理解できず、最後までついて行けなかった昔の弟子たちをマルコは非難しようとしているのでしょうか。そうではなく、自分たちも同じ過ちを犯す危険があると警告しているのでしょう。弟子たちは実際にイエスの死と復活が起こった後で、本当の意味で理解し、従う者となりました。わたしたちはもうすでにイエスの歩まれた道を知っています。そのわたしたちをイエスはご自分の道に招いてくださっています。今のわたしたちにとってイエスに「聞く=聞き従う」とはどういうことでしょうか。

結局「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」が現実なのだろう。そして、今もイエスの招きを私は信じている。「「聞く=聞き従う」とはどういうことか」という問いは重い。「わたしたちはもうすでにイエスの歩まれた道を知っています」とあるけれど、私はわたしたちはイエスの歩まれた道を知っている気持ちになっていますという感じが強い。分かっている気になっているけれど、実はほとんど分かっていないのだと思う。10年前より今の方が分かっているのかも知れないし、2020年6月7日より前に分かっていたことが今はわからなくなっているのかも知れない。自分が知っている、分かっていると思うことは柔いのである。「「聞く=聞き従う」とはどういうことか」に向き合うしか無い。それは祈りであり、ひとの声を聞くことであり、真実、真理を追求していくことなのだと思う。真理の追求が他人を傷つけると感じる時にどう生きるかは人に任された重い自由だ。正解など無く、選択なのだと思う。

※画像はYouTubeからキャプチャーしたもの