キリスト教

王を求めてはいけないと思う

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最近、多くの地で民が王を求めているのだと感じている。

旧約聖書のサムエル記上8章(新共同訳)には「民、王を求める」という見出しがついている。民族指導者で預言者のサムエルが衰えた時に民が王を立てよと求めた話がでている。預言者なので、その求めに対して神に意見を求めると、「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。(中略)ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」と答えが返ってきた。その警告の最後は、「(前略)こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」である。

示唆に富むと思う。

民は、「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」と答え、自ら王の奴隷となる選択をした。

王の奴隷となる事を求める声が大きくなると、民主主義は機能しなくなり、公平という理念が意味を持たなくなる。代わりに起きるのは奪い合いだ。仁義なき戦いとでも言えば良いのかも知れない。

愛の賛歌

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コリントの信徒への手紙1の13章は結婚式でも良く引用される箇所でクリスチャンでなくても知っている人は多い。

4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

今週の礼拝で、9節からの「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」とのつながりの話が出て、愛をキリストと読み替えて読めばよいとの勧めがあった。

子どもの時はこの箇所を軽く受け止めていたのだが、最近は「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」が難しいと思っていたのだ。義も真実も視点を変えれば変わるからだ。自分が考える義も真実も不完全なものだから、キリストを倣う事はできても部分的なのは間違いない。

テサロニキの坂道からの景色はちょっと尾道のようだった

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テサロニケの坂

今年は、Coworking Europe Conferenceに参加した機会にギリシャに立ち寄ることにした。新約聖書はなぜイエスが話したアラム語でなくギリシャ語で書かれることになったのかが気になったということもあるし、長い歴史のある地が深刻な経済危機に陥っていることは良く知られていて、今の欧州でそれがどういうことなのかを自分の目で見たかったという事もある。会議後翌週の予定の間の18年11月17日(土)から日月の3日間。初期のパウロの伝道旅行の対象地が現在のギリシャ北部であることから、まずテサロニキを訪問する事とした。初期の教会で現存しているものはない。

現在のテサロニキはギリシャ第二の都市である。都市圏で人口約100万人。世田谷区より一回り大きい程度である。市街地面積は世田谷区の約2倍。遺跡が点在し、港から割とすぐに坂になり、登っていくと城壁跡がある。登ったところから見ると、街が一望でき、もちろん日本の景色とは違うのだが、坂の街、尾道を想起させる美しさだった。

一方で、現実は厳しい。

Co-Community

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Co-Communityという単語から、複数のコミュニティが協調的に動いていく様を想像した。コミュニティは排他的にも、あるいは、多様性を許容するような形にも変容し得る。ICTとプロセス設計がその健全な成長に資することはできるだろう。GoalGorillaの挑戦に注目したい

キリスト教とソーシャルワーク

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日本の社会福祉の歴史を新野 三四子氏の論文「キリスト教社会福祉教育における専門ワーカー育成の歩みと課題」から学び、現在の国の社会福祉政策とキリスト教会(界)が行うべきソーシャルワークのギャップを探り、今後について考える。