キリスト教

新生活47週目 - 「マリア、エリサベトを訪ねる~マリアの讃歌」

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View of the facade of the Church of the Visitation, Ein Karem, Jerusalem
今日の福音朗読はルカによる福音書のマリアの讃歌を含む箇所で、今日の箇所も並行箇所がない。プロテスタント教会で育った私にとってはカトリックのマリア崇敬には強い違和感を感じるが、彼女から見えていた景色には興味がある。

新生活46週目 - 続「イエスは命のパン」

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Hostia
英語版のWikipediaでは”this discourse has often been interpreted as communicating teachings regarding the Eucharist that have been very influential in the Christian tradition.”(この箇所は(キリスト教会の習慣に巨大な影響をあたえ続けている)聖体に関する教えを伝えるものとしてしばしば解釈されてきた)とある。並行箇所のないところで、私は多分イエスがこの通りの発言はしたことはなかっただろうと考えている。

新生活44週目 - 「五千人に食べ物を与える」

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Ruins_of_Bethsaida_village_in_summer_2011
ひょっとすると、食べ物を与えられた群衆は革命活動の手前まで来ていたかもしれない。「人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしている」からすると、イエスは群衆を哀れに思うと同時に恐怖したかもしれない。考えてみると、この給食の話の延長線上に磔刑が見えてくる。集団の形成は危険を伴う。

新生活43週目 - 「五千人に食べ物を与える」の前

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rumunia_5806.jpg
本日の箇所は2人組での伝道旅行からの帰還直後のシーンだ。もし一斉に帰ってきて再会したとすると、かなり計画的に定められた期間で何らかの網羅性のある活動だった可能性がある。イエスはこの伝道旅行を成功だったと考えていただろうか。

新生活42週目 - 「十二人を派遣する」

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ナザレの平均気温
福音のヒントには「ずっとイエスのそばにいて、イエスのなさることを見てきた弟子たちが、いよいよ派遣されるのがきょうの場面です」とある。その旅がどういうものだったのか、想像してみた。現代日本にいる人は、このシーンをどう解釈すればよいのだろうか?

新生活41週目 - 「ナザレで受け入れられない」

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Nazareth_the_holy_land_1842
「(イエス自身の出身地であるナザレでは、)ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。」とある今日の箇所は短いが印象的な箇所だ。

この前の日曜日に思ったこと

何かを良くしようと思えば、力あるいは多くの賛同者が必要となる。最初は純粋な気持ちであっても、それぞれの純粋な気持ちに差異があることはやがて分かる。短期的には真実がなくても束ねる力に優れた人が率いる組織が有利になるが、長期的には束ねる力への依存度を下げても持続可能な組織が生き残るだろう。