キリスト教

Amazon AWSと今のプロテスタント教会の類似性

扇動者は躯を必要とする。自分に扇動者の自覚は無いかもしれないが、事実を重んじなくなったら危ない。まずは、事実に向かい合わなければいけない。国であれ、教会であれ、善意だと甘く見ていると、人死がでるリスクがある。

新生活16週目 - 「イエス、洗礼を受ける」

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ユダヤ砂漠にあるマサダの上空からの眺め。左奥に死海が広がり、遠方にヨルダンを眺める
洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼の記述は、福音書間で差異がある。福音書は人間が書いたイエス伝だから解釈が入っていて、実際に起きた事実がどうだったかは想像するか何らかの手法で研究するしかない。事実を知りたいと思ったら、やはりその場所に行きたくなる。

不安に追い詰められているときこそ事実に向かい合わなければいけない

運が良ければ、行動が不適切でも感染したり亡くなったりすることはなし、人命を守るために我慢している人より短期的には利を得られるかも知れない。しかし、失われた命は戻らない。環境が変わった以上、適応しないわけにはいかない。人の命がかかっている以上、まず、事実に向かい合うべきだろう。

新生活15週目 - 「占星術の学者たちが訪れる」(公現祭)

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「民衆の前に現れたキリスト」(アレクサンドル・イワノフ)。洗礼者ヨハネ(手前左)がこちらへ歩いて来るイエス・キリストを指し示している
イエスが生まれたことになっているベツレヘムはエルサレムの近郊でイエス家があったであろうナザレとは100km程度離れている。今日の聖書箇所はよく知られている物語なのだが、あらためて読み直すと怪しさ満載だと感じた。なぜこの記録がなされたのか、そしてよく知られる物語になったのか、考えてみたがやはりあまり良くわからなかった。

新生活14週目 - 「神殿で献げられる」

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年末のごあいさつ
今日は、波乱の年2020年の最後の日曜日。アドベントから始まる教会暦としては最初の月の終わりで、来週から公生涯をなぞり始める。仮に100歳まで生きたとしても後40回しか教会暦を過ごすことはできない。若い時は、先はいくらでもあると思っていたが人生は短い。ごまかしに生きることなく、誠実に一歩、一歩歩みを進めていきたい。

教会は誰のものか?

「教会は誰のものか?」は、二重性を持つが、一義的には「神のもの」と考えるのが適切だろう。少なくとも、牧師のものでもなければ、役員会のものでもない。どちらも、預かっている者であって所有者でも支配者でもないのだが、しばしば勘違いする。

砧教会から絶縁状をもらった

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絶縁状
プロテスタントでは、クリスマスを大きく祝うのは25日の直前の日曜日だ。後3日。この絶縁状が砧教会の私へのクリスマスメッセージだ。なんと素晴らしいことだろう。何人もの人がこれもコロナのせいだと言う。もちろん、コロナは問題を顕在化させる力があるだろう。コロナは単なるきっかけに過ぎない。私達は、いつも崖っぷちにいるのである。

新生活12週目 - 「洗礼者ヨハネの証し」

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オールド・シティ-から-ギリシャ-テッサロニキ-Google-マップ
福音のヒントに「降誕節は『その闇の中にもうすでに輝いている、小さな、しかし確かな光』である幼子イエスを見つめる」と書かれていた。私は今は闇の中にいるが、少なくとも自分にとって幸いなことにイエスは復活し今も存在していると信じている。能力が足りなくて行動に至れなくても、愛に生きる道は示されている。心の支えである。