キリスト教

パトモス島

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現在のトルコのごく一部がヨハネの黙示録の舞台だったらしいことが分かった。関東地方より狭い程度の範囲で、当時はまだちゃんとした宗教とは認められていなかった。当時を想像してみるのは面白い。

王を求めてはいけないと思う

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最近、多くの地で民が王を求めているのだと感じている。

旧約聖書のサムエル記上8章(新共同訳)には「民、王を求める」という見出しがついている。民族指導者で預言者のサムエルが衰えた時に民が王を立てよと求めた話がでている。預言者なので、その求めに対して神に意見を求めると、「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。(中略)ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」と答えが返ってきた。その警告の最後は、「(前略)こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」である。

示唆に富むと思う。

民は、「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」と答え、自ら王の奴隷となる選択をした。

王の奴隷となる事を求める声が大きくなると、民主主義は機能しなくなり、公平という理念が意味を持たなくなる。代わりに起きるのは奪い合いだ。仁義なき戦いとでも言えば良いのかも知れない。

愛の賛歌

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コリントの信徒への手紙1の13章は結婚式でも良く引用される箇所でクリスチャンでなくても知っている人は多い。

4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

今週の礼拝で、9節からの「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」とのつながりの話が出て、愛をキリストと読み替えて読めばよいとの勧めがあった。

子どもの時はこの箇所を軽く受け止めていたのだが、最近は「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」が難しいと思っていたのだ。義も真実も視点を変えれば変わるからだ。自分が考える義も真実も不完全なものだから、キリストを倣う事はできても部分的なのは間違いない。