新生活24週目 - 「神殿から商人を追い出す~イエスは人間の心を知っておられる」

今週の箇所は「四旬節第3主日 (2021/3/7 ヨハネ2章13-25節) 」。福音のヒントによると、「四旬節第3~5主日の福音は年によって雰囲気がかなり違い(中略)、今年(B年)はイエスの「死と復活」(中略)「三日で建て直される神殿」すなわち「死んで三日目に復活するイエスの体」です」とある。今回も、自分で調べてみると新たな発見がいくつもあって感謝している。まず、聖句を引用させていただく。

福音朗読 ヨハネ2・13-25

13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
23イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。24しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、25人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

福音のヒントで、「マルコ・マタイ・ルカ福音書によれば、イエスはずっとガリラヤ地方で活動していて、生涯の終わりに1度だけエルサレムの都に上り、そこで殺されたということになっていますが、ヨハネ福音書ではイエスは何度もガリラヤとエルサレムを行き来しています」と書かれているので、記載の違いを四福音書対観表サイトで調べてみた。今日のヨハネ伝の箇所は、「最初の過越と宮きよめ」として、公生涯の最初の時期に書かれているのに対して、他の福音書では、最後の一週間の最初の記事「イエスの宮きよめと教え」として記載されている。順序としては、恐らく他の福音書の方が現実に近いだろう。十分に知名度が上る前に境内で狼藉をはたらいたら、その後の活動はかなりカルトあるいは今の言葉で言えばマニアの「押し」に依存してしまう。逆に言えば、ガリラヤ伝道で十分に知名度が上がってからエルサレムに上ってきてやったこととして考えれば、そういうことも成立し得るかも知れないと感じる。

実際のイエスの行動がどうだったのかはわからないが、今の私はヨハネ伝は故意に事実を曲げた編集をしていると思う。ただ、イエス=神の子を前提として読むと、この順序のほうがずっと読みやすい。だから、事実を無視して心をつかみ、事実にこだわる人は共観福音書にあたるという考え方はあっても良いと思う。19歳の受洗時を振り返れば私自身「福音書はヨハネ伝だけで十分じゃないか」という感覚だった気がする。人生はそれなりに長い。

イエスが神、あるいは神の子、神の化身として「宮きよめ」の記事を読むと、不純なものの一掃と読めるので、拍手喝采という気持ちになる。一方で、そこで商売をやっていた人から見たらたまったものではないだろう。時の常識では違法な行為ではないだろうし、福音のヒントに書かれているようにローマの通貨が献金に使えないのであれば、両替を求める実需もあったわけだから、両替人がいなくなったら困る人も出たに違いない。先週、ジーザス・クライスト・スーパースターに触れたが、あの映画では、この宮きよめのシーンで打ち壊される両替商とか武器商人が出てくる。各国の紙幣が飾られていて日本の一万円札も映る。宗教活動に携わる人も何らかの方法で食べていかなければいけないから、寄進は不可欠だ。金が動けば、人も動く。子供の時は「父の家を商売の家としてはならない」という言葉は単純に正しいと感じられたが、そこで商売が動かなければ宮の維持は不可能だ。

宗教は価値を規定する。正しいことと正しくないことを決め、現世と死後の安泰を説く。寄進が多ければ見返りが大きいと考えたくなるし、献金をしないと地獄行きじゃないかと恐れを抱かせることもある。権威主義的になりやすい。現実社会では宗教指導者の育成にも金はかかる。研究機能を維持して宗教組織が進歩し続けるためには組織化も必要となるし、大きくなれば監査機能ももたなければいけないし、様々なルールを設定しないで維持することもできない。真摯で誠実な思いで始めても、時間が経過すればかならず垢は溜まってしまう。商売なしでは済まないし、巣食うものの存在を許してしまう。巣食うものを一掃すると、今までうまく行っていたシステムが回らなくなり大混乱が起きる。だから、宮きよめは体制側だけでなく少なからぬ大衆にとっても大迷惑となる。

神の子であれば、当然の権利としてやって良いことだが、神の代理人を担っていた指導者から見れば、とんでもない行為となる。指導者の中には古狸的な存在もいたに違いないが、誠実であろうと全力で努力していた人も多くいただろう。善いことをしたいと思ったらルールを改善していく必要があり、ルールを改善しようと思えば権力構造の中で一定の力を獲得しなければいけない。生き残るためには、無垢でいることは極めて難しく、組織が大きくなれば難易度は上がっていく。宮きよめのようなイベントは目を引くが、それ自身は一過性の事件に過ぎない。原点に帰るにはどうしたら良いか、システムをどう改変するかに取り組まなければ現実は変わることはない。

福音のヒント(5)で書かれているように「イエス御自身は彼らを信用されなかった」は示唆に富む。安泰を求める心からでるものは所詮それだけのものでしかなく、一過性の奇跡も長い目で見れば世界を変える力はない。一人ひとりの心に灯った愛を丁寧に育てる以外の道はないのだろう。

差別や排除との戦いは終わらない。私は「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」という憲法前文が好きだ。人への依存ではなく、不断のシステム改善に期待したい。

第一朗読は、十戎。基本原則も改定補強は不可欠だと思う。十項目は多すぎるので、それを捨てるわけではないが、愛一本を中心に据えようというのが福音の本質だと思っている。

※写真はAmazonのサイトから引用させていただいた映画十戎の関連イメージ。私はこの映画は見ていない。