新生活19週目 - 「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」

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福音のヒントでは、本日は「年間第4主日 (2021/1/31 マルコ1章21-28節) 」。冒頭で「マルコは、イエスのガリラヤでの活動の様子を、カファルナウムでの典型的な一日を語ることによって伝えようとしているのでしょう」と書かれている。なるほどと思う。現在のカファルナウムを紹介する以下のビデオでは、シモン・ペテロの実家を教会にしたという解説がある。「なぜイエスはカファルナウムに活動拠点を移したのか?」も興味深い。故郷ナザレでは、受け入れられなかったからだという言及がある。

聖書箇所を引用させていただく。

福音朗読 マルコ1・21-28

 21イエスは、安息日に〔カファルナウムの〕会堂に入って教え始められた。22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

私は、かつてこの箇所をそのまま悪霊払いの箇所として読んでいた。「イエスすげー」である。だから、福音のヒント(2)の『イエスは悪霊を問題にしているのではなく、「悪霊に取りつかれている」と考えられていたその人自身を見ているのではないでしょうか』は新鮮であった。悪霊を払う方は、メインではなくサブで、その人との関係を確立することで、福音を伝えるという視点だ。

今の私は基本的に性善説に立脚している。つまり、人の本性は善なるものだと考えている。事実を無視するような行動を起こすシーンを見ると、悪霊がついているとは思わないが、何らかの理由で真実を見る力を失っている状態にあると考えるようになった。科学的な事実も確率的だが、それでも相当確からしいことを事実あるいは真実と呼ぶ。

子供の時には知識がないから、2つのものが同じか違うかも判断できない。数を数えられるようになったり、言葉の使い方を学ぶことによって「確からしいこと」を共有できるようになる。対象が同じ、つまり事実は一つであったとしても、その事実を同じように見ることができるわけではない。この汚れた霊に取りつかれた男には、どのように世界が見えていたのだろうか。周囲から見るとかなり迷惑な人だったのだろう。殺人などの犯罪を犯せば自由ではいられないだろうから、迷惑であったとしても迷惑なだけだったのだろうか。悪霊が出ていったとしたら、その男は正気?になって社会生活に復帰できたのだろう。改めて、福音のヒント(2)の『イエスは悪霊を問題にしているのではなく、「悪霊に取りつかれている」と考えられていたその人自身を見ているのではないでしょうか』という言葉の意味を考えると、汚れた霊に取りつかれた男を排除するのではなく、むしろ、その男をコミュニティに包摂する方向に動いたと読むことができる。

エクソシスト的な意味で「イエスすげー」ではなく、この記事のイエスはすごい。私は、生前のイエスは一人の人間だったと思っている。しかし、かなり覚醒していたと思う。ここで言う覚醒は、本質に近づいているという意味だ。悪霊の存在が常識だった時に「黙れ。この人から出て行け」と命じるのは合理的だっただろうと思う。彼が困難な状況にある時に、それはあなた自身が駄目なのではないというメッセージを発したと読むことができる。あなた自身は大丈夫だという許しでもある。救いである。愛である。

一方で、コミュニティ側、あるいは主流派ははたして機能していたのだろうか。コミュニティは排他的な性質を持つので、今考えれば合理的でないローカルルールが支配していただろう。ローカルルールはコミュニティの結束の上には有効で、一定の忠誠心なしにコミュニティは維持できない。コミュニティは共に生きるために自然発生するが、コミュニティができると支配の欲に囚われる人が出てくる。力の独占と罰による支配への道だ。宗教的なコミュニティには人は救いを求めて集まってくる。支配の構造から考えると、罰する神を担ぐのが好都合となる。この構造は現代でも変わらない。宗教コミュニティに限らず、政党も同じ性格をもつ。

地動説を唱えると悪例に取り憑かれているものと扱われたコミュニティもあった。そのコミュニティの秩序に挑戦するものを許せなかったのだ。地球温暖化などFake newsだ、コロナウイルスなど無視すれば良いなどという判断が今も力をもっている。事実より、コミュニティ支配層の都合を優先する、あるいは空気を大事にする。しかし、事実に向き合わなければ破綻に向かう。

聖書を読む限り、洗礼者ヨハネの説く神は罰する神だった。覚醒したイエスの説く神は包摂する神なのだと思う。違いを越えて、共に生きよというメッセージで、ローカルルールに隷従するのではなく、内側から出てくる愛の思いに生きよと繰り返し説いた。そのメッセージはコロナ禍の今も有効だと思う。過去を懐かしむのではなく、明日を向いて歩みを進めたい。

※画像は、BIBLE READING ARCHEOLOGYの記事から引用したもの