新生活32週目 - 「イエスはまことのぶどうの木」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第5主日 (2021/5/2 ヨハネ15章1-8節)」。ヨハネによる福音書14章~17章は告別説教と呼ばれる箇所で本日の箇所に並行記事がない。マタイ伝15章13の「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、全て抜き取られてしまう。」と対比させることはあるらしい。

福音のヒントでは、この告別説教を最後の晩餐の時の説教と位置づけている。他の福音書の最後の晩餐の記事はあまり長くなくないが、弟子たちの離散の預言は4書全てに書かれている。イエスは逮捕と処刑は避けられないと考えていたと思われるので、この際様々な教えを伝えられるだけ伝えようと告別説教を行ったのかも知れないが、もしそれが事実であれば他の福音書でも記載がなければおかしい。私は、最後の晩餐の時に長い告別説教があったとは思えない。ヨハネ伝の編集の結果付加されたものだと思う。特に今日の「イエスはまことのぶどうの木」の箇所は教会の権威を正当化する教えになると思われ、教団の意向が反映されているように感じる。

ともあれ、ここで福音朗読を引用させていただく。

福音朗読 ヨハネ15・1-8

 1〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

キリスト教の復活信仰は、2000年前の磔刑の後、人と神との直接的な接点はイエス一点に限られているという考え方に立っている。しかし、現代に実体としてのイエスはいない。三位一体という考え方に整理され、神と子(イエス・キリスト)と聖霊は同じと考えることになっている。当然神は最初から存在していて、永久に存在すると考えるのが妥当で、霊の存在も世の東西を問わず多く信じられてきた。それが神につながるものとそうでないものがあるというのは少し考えるだけでもおかしい。神が創造主であるとすると、すべてのものは神から出たということになる。

「イエスはまことのぶどうの木」の教えは、イエスにつながっているかいないかという踏み絵となる。何か、イエスの教えにそぐわない気がする。「それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」という話は、神の相対性の表明だからどうも旧約的な古さを感じる。

一方で、こういう排他的な教えは、選ばれたもの(選んだもの)の差別化、優越化につながるから、頑張るエネルギーになる。ナショナリズムに通じる構造で、これで治安が良くなり、幸福になる人が増えるのであればめっけものといえる。俺のほうがより良く行動できているというような競争が生じる。この箇所はその競争を煽っているように感じさせるのだ。教会運営上は有利に機能しそうだが、どうも嫌な感じがする。私には、マルコの10章の記事のほうがしっくりくる。

42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

2人の人がいれば、どちらかが上でどちらかが下になってしまうから、客観評価で皆がすべての人の僕になることはできない。ただし、心的な状態では、誰もがすべての人の僕になることはできる。キリスト教的に言えば、絶対評価ではイエスが一番下で支えていることになるので、その枝につながっているという解釈はありだろう。カソリックだとその次に教皇の座があって階層的構造を持ち、プロテスタントだとすべての人が(仲介者なく)直接イエスにつながるという話になるのだろうと考えている。「イエスはまことのぶどうの木」と考えることには違和感はないのだが、それを評価基準とする考え方にはどうにも馴染めないと思ったのであった。良い結果は出すに越したことはないが、実を結ばなければ切り捨てられるという考え方は嫌だ。

福音のヒント(1)では、中心的な聖句として「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(9-10節)を強調している。これはその通りかもしれないなあと思う。愛のある人になりたいと思うし、とどまれるものならとどまりたいものだ。もう一点、福音のヒント(5)の言及が気になった。

「イエスというぶどうの木につながっている」ということは洗礼やミサへの参加などよりももっと根本的な生き方の問題だということが分かります。もちろん、ミサや秘跡をとおしてイエスにつながることは大切です。ただ、もっと大切な、わたしたちが目に見えないイエスとのつながりを生きること、そして、わたしたち自身が愛する者に変えられていくことを表す目に見えるしるしが秘跡なのです。

教会につながっているということが「イエスというぶどうの木につながっている」ということなのかという問いにもなるのだが、やはり「もっと根本的な生き方の問題」と捉えるのが適切なのだろう。秘跡は組織の解釈に過ぎないが、しるしがあることで思考の視界に入ることもある。

私は、今かつてつながっていた教会の現住陪餐会員からは外れている。外れたままにしているのは牧師と役員会の意思である。私には「支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」状態に見えている。私はずっと「イエスというぶどうの木につながっている」という問いに向かい合い続けている。自分が間違ったことを主張している自覚は全く無い(間違っている可能性は否定しようがない)。

※画像はWikimediaのLeonardo da Vinci (1452-1519) - The Last Supper (1495-1498)から引用